雪は昨夜も降った。

 朝、分校の窓から外を眺めると、世界はまた白くなっていた。昨日の足跡も轍も、すべて均されて、村は無表情な顔をしている。この村はいつもそうだ、と朔は思う。何かを隠すたびに、雪が降る。

 紬が話してくれたのは放課後のことだった。薄墨色の梅柄の着物を纏った市松人形が、白い部屋の中心に座っている。人形は何も言わない。ただ、訴えている。その夢を三夜続けて見たと、彼女は抑揚のない声で語った。

 朔の胸の奥で、何かが揺れた。

 問題は、その人形がどこにあるかだ。

 職員室に一人残り、朔は村のことを調べ直していた。着任前に集めた資料は薄く、白妻村の祭祀について書かれた文献はほとんど存在しない。唯一手元にある郷土史の小冊子には、氏神の社についての記述が数行あるだけだった。

             ——白妻村の氏神は「シラツマ様」と呼ばれ、村の東の山裾に祀られている。年に一度の婚礼祭には奉納物が捧げられ、以後社内にて管理される。

 奉納物。

 朔は鉛筆の端を唇に当て、しばらく考えた。花嫁人形が「奉納された」とするなら、その場所はあの社しかない。志津の老婆もそれを遠回しに示唆していた。先日の訪問で彼女が言いかけて止めた言葉、棚の片隅に見えた花嫁衣装の切れ端——あれは何かの手がかりのはずだった。

 問題は、透だ。

 綾部透。紬の叔父にして、村の祭祀を取り仕切る男。朔が村に来て以来、彼はずっとどこかから見ていた。直接言葉を交わしたのは二度きりだが、そのたびに朔は、ガラス越しに見られているような感覚を覚えた。笑顔があるのに、その奥が動かない。

 透の許可を得て社に近づくことは、おそらくできない。

 ならば、と朔は立ち上がった。

  *

 午後の光が傾きかけた頃、朔は村の東へ向かった。

 道は一本しかない。雪を踏む音が静寂に吸い込まれていく。民家の並ぶ通りを抜けると、あとは杉林が続いた。木々の間から差し込む光が斜めになって、雪面に細い影を落としている。息が白くなるたびに、世界がすこしずつ透明になっていくような気がした。

 十分ほど歩いたところで、鳥居が見えた。

 古い木の鳥居だった。塗りは剥げ、柱の根元は苔と雪に埋もれている。しかし注連縄は新しかった。白い紙垂がいくつも垂れ、風が動くたびにわずかに揺れている。誰かが、最近ここの世話をしている。

 朔は鳥居の前で立ち止まった。

 参道は短く、奥に小さな社が見えた。屋根に雪が積もり、扉は閉ざされている。周囲は静かだった。鳥の声もない。雪が音を殺しているのか、それとも何かが息を潜めているのか、朔には判断がつかなかった。

 一歩、踏み出した。

 そのとき、目に入った。

 社の前の雪に、足跡があった。

 朔は動きを止めた。

 一対の足跡が、社の扉の正面から、参道の脇へと続いていた。いや、正確には逆だ。参道の脇から社の扉へ向かっている。足跡は扉の前で終わっていた。戻ってきた跡はない。

 朔はゆっくりと近づいた。足跡を踏まないよう、参道の端を歩く。

 しゃがんで、覗き込んだ。

 奇妙だった。

 大きさが、合わない。大人の足跡にしては小さい。しかし子どものそれにしては、形が違う。踵から爪先までの長さは、おそらく二十センチに満たない。だが幅が広く、指の跡がやけにはっきりしている。五本の指が、雪に深く押しつけられたように残っていた。

 朔は眉間に皺を寄せた。

 下駄、か。いや、違う。下駄なら歯の跡が残るはずだ。これは素足に近い何かだ。足袋か。しかし足袋でこれほど指の形が出るだろうか。

 そもそも、この足跡が向かった先は社の中だ。扉は閉まっている。雪の上に出た足跡の持ち主は、閉じた扉の中へ消えている。

 朔の首筋に、冷たいものが走った。

 寒さではない。

 思い出したのは、紬の言葉だった。白い部屋。梅の着物。人形が訴えている。その人形の足は——小さな、あの市松人形の足は——どれくらいの大きさだろう。

 立ち上がったとき、背後で雪が鳴った。

 振り返ると、林の陰に人影があった。

 中年の男だった。茶色の綿入れを着て、頭に手拭いを巻いている。顔は半分、杉の幹に隠れていた。目が合った、と朔は思った。しかし男はすぐに視線を逸らし、何事もなかったように林の奥へ歩いていこうとする。

 「ちょっと待ってください」

 朔は声をかけた。

 男の背中が、一瞬、固まった。

 「この辺りの方ですか。社に何かご用でしたか」

 男は振り返らなかった。ただ首だけをわずかに動かし、こちらを一度だけ見た。その目に、何かが宿っていた。怯えではない。もっと平坦な何か——職務のような、命令のような色だった。

 「……別に」

 男はそれだけ言い、林の中に消えた。足音は雪に吸われて、すぐに聞こえなくなった。

 朔は社の方へ向き直った。

 監視されている。直感ではなく、確信だった。透が誰かに命じたのか、それとも村の人間が自発的に動いているのか。どちらにせよ、自分がここへ来ることは、もう透の耳に届くだろう。

 時間がない。

 社の扉に手を伸ばした。木は古く、乾いていた。引き手に指をかける。

 鍵はかかっていなかった。

 扉がわずかに開いた。隙間から、暗い内部が見えた。埃と、何か甘いものが混じった匂いがした。線香ではない。もっと古い、熟れたような香りだ。

 朔は息を吸い、扉を少し広く開けた。

 暗い社の内部に、棚があった。簡素な木の棚が奥の壁に沿って設けられ、その上に白い布が被せられたものが置かれている。大きさは、子どもが抱えるほどの箱だった。

 箱の前に、花が供えてあった。

 生花ではない。造花だ。白い梅の造花が、小さな器に挿されている。梅。薄墨色の梅柄。紬が夢で見た、あの人形の着物と同じ柄だ。

 朔の心臓が、一度強く跳ねた。

 白い布の端が、わずかにめくれていた。風のせいか、それとも誰かが触れたのか。めくれた端から、着物の袖がのぞいていた。

 薄墨色の地に、淡い梅の模様。

 ——ここにいる。

 朔は手を伸ばしかけた。そのとき、背後で音がした。

 雪を踏む足音。複数。

 振り返る前に、声がした。

「白瀬先生」

 透の声だった。

 低く、静かで、怒りの形をしていない。それが却って、朔の肌を粟立たせた。感情を持たない声というのは、時として、怒声よりも恐ろしい。

「ここは、部外者が来る場所では、ありませんよ」

 朔はゆっくりと振り返った。

 透が立っていた。背後に、二人の男を連れて。先ほど林に消えた綿入れの男とは別の顔だった。三人の目が、同じ色をしていた。あの男と同じ、平坦で、職務のような色だ。

 「人形を確認したかっただけです」と朔は言った。声が、思ったより落ち着いていた。「紬さんが夢で見ているものと、ここにあるものが同じかどうか」

 透の口元が、かすかに動いた。

 笑っているのか、そうでないのか、朔には判断できなかった。

「同じですよ」

 透はそれだけ言った。

「あの子は、選ばれた。先生が何を見ようと、それは変わらない。人形は人形の場所にある。そして、あの子はあの子の場所へ行く」

 雪が、また降り始めた。

 細かな粒が、静かに社の屋根を白くしていく。朔は透の目を見た。その奥に何があるのか、今はまだ、見えなかった。

 ただ一つだけ確かなことがある。

 社の中で、薄墨色の袖が風もないのにわずかに揺れた気がした。

花嫁人形と、溶けない雪の村

8

人形の在処

氷室 宵子

2026-05-20

前の話
第8話 人形の在処 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版