放課後の教室は、雪明かりだけが頼りだった。
西向きの窓ガラスが、傾きかけた冬の光を受けてかすかに白く滲んでいる。黒板の端には今日の板書が消し残されており、「二次方程式の解き方」という文字列が、もう誰も読まない教室でひっそりと立っていた。
白瀬朔は生徒用の椅子を一脚引き出し、逆向きに跨って腰を落ち着けた。机の向こうに綾部紬が座っている。直立した背筋。膝の上で重ねた両手。視線は斜め下、誰もいない廊下の方角へと注がれており、朔の存在を意識しながらも正面から受け止めることをどこかで拒んでいるように見えた。
「体の具合は悪くないか」
朔はできるだけ事務的な声音で切り出した。職員室での面談を持ちかけた時、紬は一瞬だけ瞳を揺らしたが、ほどなく「はい」と言って席を立った。その「はい」に含まれた諦めのような滑らかさが、朔の胃の底にわずかな引っかかりを残した。
「普通です」
紬は答えた。普通、という言葉がこれほど薄く聞こえたことはない。
「最近、朝の表情が硬い。授業中も集中が続いていないように見える」
「……眠れていないだけです」
「眠れない理由は」
沈黙が落ちた。紬は視線を机の天板へと移し、指先でわずかに何かをなぞるような仕草をした。それは無意識の動作のように見えたが、朔は見逃さなかった。右手の指が、左手首をなぞっている。
白い布が巻かれていた。
包帯とも呼べない、木綿の切れ端のようなもの。制服の袖口からほんのわずか、一センチにも満たない幅で覗いている。色は純白で、清潔というよりも儀礼的な白さだった。雪の色ではなく、奉納の紙の色。
「その手首」
朔が言うと、紬は左手をすっと膝の裏に引き込んだ。動作は素早かったが、慌てた様子ではなかった。むしろ、いつかこの話題になることを想定していたような、疲れた落ち着きがあった。
「転んで、少し擦りむいただけです」
「見せてくれ」
「大丈夫です」
「紬」
名前を呼ぶと、少女の肩が小さく揺れた。朔は椅子から立ち上がり、机を回り込もうとしたが、紬が先に立ち上がった。鞄を肩にかけ、深く一礼する。
「失礼します」
それだけ言い置いて、教室を出て行った。
廊下に遠ざかる足音を聞きながら、朔は両手を机の天板についたまま立ち尽くした。追いかけることもできたが、追い詰めることが今の紬に必要なことだとは思えなかった。彼女はすでに何かに選ばれている。その確信は、透との対峙の夜から朔の胸郭の奥に居座って、日々密度を増している。
そのとき、床に白いものが落ちているのに気づいた。
手帳だった。
文庫本ほどの大きさで、表紙は濃紺の布張り。留め具はなく、ただ重なった紙の縁がわずかに捲れていた。拾い上げると、思いのほか重かった。ページが紙で埋め尽くされているせいだと気づいたのは、表紙を開いた瞬間だった。
人形だった。
最初のページにも、次のページにも、またその次にも。鉛筆で描かれた人形の絵が、余白を埋め尽くすように連なっていた。市松人形の顔。垂れ目がちな瞳、おかっぱの黒髪、白い襟元。同じ顔が、角度を変え、大きさを変えながら、ページを重ねるごとに増えていく。
どこかで見た顔だと思った。
それが社の奥で目撃した梅柄の市松人形であることを認識した瞬間、朔は手帳を閉じようとした。しかし指が止まった。途中のページに、他の絵と明らかに異なる書き込みがあったからだ。
人形の絵ではなかった。
少女が描かれていた。
長い黒髪、俯いた顔、膝を抱えた座り姿。着物を着ており、両手首に白い布が巻かれている。少女の周囲には細い線が幾重にも重なって、糸のようでもあり、蜘蛛の巣のようでもあった。
その絵の余白に、小さな字で書かれていた。
「はなよめに なる」
句読点も、区切りも、疑問符もない。ただ五文字が並んでいた。諦念とも決意とも取れない、感情の重みを抜き取られたような字面だった。
朔は手帳を閉じ、しばらく動けなかった。
窓の外で風が鳴った。白い粉雪が渦を描いて窓ガラスに貼りつき、ゆっくりと流れ落ちていく。教室の暖房はすでに切られており、朔の吐く息が白く立ち上った。
紬は知っている。自分が選ばれたことを。そして抵抗しようとしていない。あの「普通です」という言葉の奥に、諦めではなく、何か別のものが潜んでいると朔は思った。受容、とも少し違う。もっと深く、もっと古い場所から来るような静けさ。
翌朝、紬が登校してきたとき、朔は黙って手帳を返した。
紬は一瞬だけ目を見開いた。それから朔の顔を、初めてまともに見た。授業中も放課後も、ほとんど視線を合わせようとしなかった少女が、今だけははっきりと朔を見た。
「読みましたか」
「絵を見た」
紬は何も言わなかった。手帳を受け取り、鞄の奥にしまう。その動作の間、左手首の白い布がまた見えた。
「紬、俺に話せないか」
朔は声を低くした。廊下に他の生徒の気配があったから、それ以上踏み込むことはしなかった。ただ紬は、鞄の紐を握りしめたまま少しだけ沈黙し、そして静かに首を横に振った。
「先生には、関係ないことです」
そう言って教室へ入っていった。
関係ない。
朔はその言葉を反芻した。昨日透が言った言葉も同じだった。お前には関係ない、ここの者でもないのに、と。しかし朔には、関係がないと言い切れない根拠があった。あの社で目にした梅柄の人形。その前で感じた、皮膚の裏側から這い上がってくるような既視感。幼い頃に押し込めた、「見てはいけないもの」の記憶が、白妻村に来てから少しずつ輪郭を取り戻しつつある。
それが何なのかを、朔はまだ言葉にできなかった。
ただ確かなことが一つあった。
紬の手首に巻かれたあの白い布は、傷を庇うためのものではない。あれは印だ。何かに結ばれたことを示す、あるいは何かに向けて差し出されたことを示す、儀礼の痕跡。朔は東の社で透と対峙した夜から、そのことを薄々感じていた。そして今、手帳に描かれた「はなよめに なる」という五文字が、その感覚を確信に変えた。
職員室に戻り、窓の外を見る。校庭の隅に積まれた雪が、午後の日差しを受けて鈍く光っている。溶けない雪だ。この村の雪は、春になっても完全には溶けないと村の古老が言っていた。地の底に染み込んだ冷気が、表面だけを緩めて芯では凍り続けているのだと。
紬の静けさも、それに似ていると朔は思った。
表面は平静を装っているが、その内側では何かが着々と進んでいる。夢に人形が現れ始めたのはいつからか。白い布を巻くようになったのはいつからか。あの手帳が、最初から人形の絵で満たされていたわけではないはずだ。
放課後、朔は蛭田志津の小屋へ向かう決意をした。
老婆は多くを語らない。しかし、白い布の意味だけは聞き出さなければならなかった。あれが何を意味するのか。なぜ紬はあれを拒まないのか。
校門を出る直前、朔は振り返った。
三階の窓に、紬が立っていた。
こちらを見ていた。表情はない。ただ、右手が窓ガラスにそっと添えられており、その隣に、白い布を巻いた左手首がかすかに見えた。
風が鳴り、雪が舞い上がった。
朔は目を細め、それから踵を返した。背中に少女の視線を感じながら、雪道を歩き始めた。その感触は追いすがるというより、見送られているようで、その静けさがかえって朔の足を急かせた。