夢の中では、いつも雪が降らない。

 それが不思議だと、紬は最初に思った。白妻村の冬は雪とともにある。目を覚ませば窓の外は灰白色で、息を吸えば肺の奥まで冷たく、村全体が白い綿に押し包まれているような日々が続く。だから夢の中にも雪があって当然だと思っていた。なのに、その部屋に雪はなかった。

 白い部屋だった。

 壁も天井も床も、すべてが等しく白く、光源がどこにあるのかわからないのに、空間全体がほのかに明るかった。窓がなかった。戸もなかった。ただ白さだけが四方を満たしていて、その中心に、人形が座っていた。

 市松人形だった。

 黒髪を真ん中で分け、白い顔に紅を差した、よくある造りに見えた。だが違った。その人形の着物は、紬がこれまで見た市松人形のどれとも違う柄をしていた。薄墨色の地に、小さな梅の花が散っている。梅の花弁はひとつひとつ丁寧に、白い糸で刺繍されたように浮かび上がっていて、見つめるほどに吸い込まれるような気がした。

 人形は、何かを言っていた。

 口が動いていた。唇が開き、閉じ、また開く。だが音が届かなかった。夢の中の空気は固く詰まっていて、言葉というものを通さなかった。紬は毎晩その唇の動きを読もうとして、毎晩読めないまま目を覚ました。

 今朝も、そうだった。

     *

 分校までの道は、雪を踏み固めた一本道だった。両側に杉の木が並び、梢に積もった雪がときおり音もなく落ちてくる。紬は黒いコートの衿を立て、足元を見ながら歩いた。息が白く流れ、消えた。

 三日前から、夢を見ている。

 誰にも言っていない。叔父の透に話せば、どうせ「人形が呼んでいる」と言うだろう。それは紬にもわかっていた。叔父は人形のことをいつも誇らしげに語った。百年前から続く習わし、村を守る人形、選ばれることの意味。その言葉を、子どもの頃から何度も聞かされてきた。

 花嫁人形に選ばれる少女は、必ず若くして嫁ぎ、子を産み、村に骨を埋める。それが「選ばれた者の使命」だと叔父は言った。嫁ぐ相手は人形ではなく、村そのものなのだと。

 紬は十六になったばかりだった。

 自分が選ばれるかもしれないと薄々感じ始めたのは、去年の冬の終わりごろだ。人形の祀られた社の前を通るたびに、視線を感じた。振り返っても誰もいない。だがその感覚は毎回あって、まるで誰かに見られているようだった。叔父がそれを聞いて、目を細めた。「お前は聡い子だ」と言った。その声が、紬は怖かった。

 怖いという気持ちを、紬はあまり表に出さない。出し方を知らないのかもしれなかった。母は紬が七歳のとき、雪の中で倒れて死んだ。父はもとから村にいなかった。叔父の家に引き取られて、紬は感情を仕舞う場所を早くに覚えた。

 風が吹いた。杉の梢が揺れ、粉雪が舞い散った。

 紬は立ち止まって、空を見上げた。鈍い灰色の空が、低く垂れ込めていた。

 あの夢の部屋には、この色がなかった。何もない白さだけがあった。

 人形は何を言おうとしているのだろう、と紬は思った。恐怖よりも先に、その問いが来た。怖いはずなのに、夢の中の人形を見ているとき、紬の胸には不思議なほど波がなかった。嵐の前の水面のような静けさが、ただそこにあった。

 諦めているのかもしれない、と紬は自分のことを思った。

 でも、と思い直す。諦めとは少し違う。

 あの人形は、何かを訴えている。訴えたくて、言葉が出ない。それは、紬にはわかる気がした。言いたいことがあるのに声が出ない感覚を、紬は知っていた。母が死んだ日、泣けなかった。叔父に「お前は強い子だ」と言われて、それが違うと思ったのに、何も言えなかった。

 言葉が詰まって、消えていく。

 人形も、そうなのかもしれなかった。

     *

 分校に着くと、朔先生がすでに黒板を拭いていた。

 白瀬朔。都会から来たという若い教師は、この村には不釣り合いなほど整った顔をしていて、話すときに少し眉が動く癖があった。紬はその癖に最初から気づいていたが、そのことは誰にも言っていない。

 「おはよう」と朔が言った。振り返らずに言ったので、背中に声がついていた。

 紬は黙ってうなずき、自分の席に座った。他の生徒たちはまだ来ていなかった。

 しばらくして、朔が黒板から手を止めて振り返った。紬の顔を一瞬見て、また黒板に向き直った。

 「顔色が悪い」

 「眠れていないんですか」と続けた。

 紬は少し考えた。

 「夢を見ます」と答えた。声が思ったより小さかった。

 朔が振り向いた。今度はちゃんと紬を見た。

 「どんな夢」

 紬は答えなかった。答えられなかった、というより、答え方がわからなかった。白い部屋。音のない口。薄墨色の着物に散る梅の花。それをどう言葉にすればいいのか、わからなかった。

 「……人形が、何かを言っています」とだけ言った。

 朔の眉が、少し動いた。

 「市松人形か」

 紬はうなずいた。朔の顔が何かを考えるように引き締まるのを見て、紬は初めて、この教師が自分と同じ方向を見ているかもしれないと思った。それは奇妙な感覚だった。今まで、そういう人間が村にいたことはなかった。

 他の生徒たちが雪を踏んで入ってきた。朔はそれきり何も言わず、授業の準備に戻った。紬も手を膝の上で組んで、黒板を見つめた。

     *

 帰り道、紬はひとりだった。

 雪道を歩きながら、ふと止まった。

 着物の柄を思い出していた。夢の中の人形の、薄墨に梅の花。あの柄を、どこかで見た気がする、という感覚がずっと引っかかっていた。夢の外で、現実の世界のどこかで。でも思い出せなかった。

 それがなぜか、今日になって急に輪郭を持ち始めていた。

 分校の棚に、古い本があった。朔先生がひっそりと読んでいる本。紬は一度だけ、その表紙を横目で見たことがあった。手書きのような文字で、何か書いてあった。先生が大事そうに閉じていたので、見てはいけないものだと思ってすぐに目を逸らした。

 だがあの一瞬、紙の端に何か描かれていたのを、紬の目は捉えていた。

 着物の柄、だったかもしれない。

 梅の花のような、何か。

 雪がちらつき始めた。紬は空を見上げなかった。ただ足元の白い道を見つめながら、心の中で、夢の人形の口の形を繰り返しなぞった。

 何を、言いたいのか。

 なぜ、自分に。

 問いはいつも途中で消えた。だが今日は少し違った。消えかけたところで、また戻ってきた。

 帰ったら、もう一度、夢の中の口の形を思い出してみよう。

 紬はそう思いながら、雪の道を一人で歩き続けた。村の奥から、風がこちらへ向かって流れてきた。その風の中に、かすかに、白粉の香りのようなものが混じっている気がした。

 気のせいかもしれなかった。

 でも紬は、その夜、また夢を見ることを確信していた。

花嫁人形と、溶けない雪の村

7

紬の夢

氷室 宵子

2026-05-19

前の話
第7話 紬の夢 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版