朝から空の色がおかしかった。
鉛よりも重たい灰色が山の稜線を塗りつぶし、校舎の窓から見上げると、雲が膜のように張り付いて光を拒んでいた。昼前には風が変わった。廊下の隙間からひゅうと細い音が滑り込んできて、職員室の窓枠ががたがたと揺れた。白妻村の古老たちに言わせれば「山が息を吐いた」ときの前触れだという。朔がその言い回しを同僚の加世田から聞いたのは赴任したての頃だったが、今日初めて、その言葉の意味を皮膚で理解した気がした。
放課後を待たずして吹雪は始まった。
朔は帳面の件を志津に確かめたかった。蛭田志津——村の外れに独り暮らす老婆のことは、赴任当初から加世田に「近づかぬほうがいい」と言われていた。理由は曖昧だった。気難しい、村のことを根に持っている、そういった言葉を加世田はどこかはぐらかすように並べて、それ以上は語らなかった。だが、花嫁人形の記録を追ううちに、志津の名前は繰り返し朔の耳をかすめた。かつて呪いを止めようとして、生き残った。それだけで十分だった。
授業を終え、生徒を送り出してから、朔は一人で学校を出た。
村の主な集落から北へ抜けると、道はすぐに細くなる。舗装が途絶えて轍の跡だけが雪の下に埋もれ、杉の木立が両側から覆いかぶさってくる。吹雪の中では三メートル先も白く霞んだ。朔は何度も立ち止まり、方角を確かめようとしたが、山は吹雪を使って風景をなめらかに均してしまう。どこを向いても同じ白だった。
どれほど歩いただろうか。足首まで雪に埋まりながら、もう引き返そうと思ったそのとき、木立の向こうにぼうっとした橙の光が滲んだ。灯りだった。
板壁に苔が這い、屋根の雪がそのまま地面と繋がりそうなほど積もった一軒家が、杉の木陰にひっそりと建っていた。煙突から薄い煙が上がっている。生きている家だ、と朔は思った。戸口に近づくと、干し柿が軒先に吊るされていて、その赤みだけが吹雪の白に浮き上がっていた。
朔は三度、戸を叩いた。
返事はなかった。もう一度、今度は強く叩くと、内側からひっかくような音がして、板戸がゆっくり引かれた。
細い隙間から、老婆の顔が覗いた。
七十か、あるいは八十か。白髪は後ろで小さく束ねられ、皮膚は木の年輪のように刻まれていた。目だけが妙に濡れていて、その瞳が朔の顔をじっと捉えた。
老婆は何も言わなかった。
朔が「すみません、道に迷ってしまって」と言いかけたとき、老婆の唇が動いた。
「また来た」
それだけだった。
声は低く、独り言のように吐き出された。朔は一瞬、聞き間違いかと思った。また、という言葉の重さが奇妙だった。初対面の相手に使う言葉ではない。
「あの——蛭田志津さんですよね。私は白瀬朔といいます。白妻小学校に赴任してきた教師で」
「知っとる」
老婆——志津は、返事を遮るように言った。
「入れ」
それ以上の説明も、歓迎の言葉もなかった。戸が大きく引かれ、朔は吹雪を背に土間へ踏み込んだ。
中は狭く、天井が低かった。土間の先に囲炉裏があり、灰の中で炭がくすぶっていた。畳は古びて色が抜け、壁には柿渋を塗ったような黒ずんだ板が並んでいる。電球がひとつ、薄黄色の光を落としていた。生活の匂い——灰と、乾いた木と、何か甘ったるい薬草の香りが混じって鼻をついた。
志津は奥へ進み、囲炉裏の端に腰を下ろした。茶を出す気配も、座れと言う気配もない。朔は土間との境に立ったまま、恐る恐る口を開いた。
「花嫁人形のことを調べています。明治期の記録に、桃という娘が奉納されたとあった。あなたはかつて——」
「聞き飽きた話だ」
志津は炭をつついた。火が小さく跳ねた。
「何十年も前から、誰かがその話を持ってくる。そのたびに同じことを言う」
「同じこと、というのは」
「関わるな、ということだ」
朔は少し間を置いた。
「でも、あなたは止めようとしたんでしょう。昔、呪いを」
志津の手が止まった。ほんの一瞬だったが、確かに止まった。
「誰から聞いた」
「村の人たちが、少しずつ」
「嘘だ」
老婆は短く言った。
「村の者はその話をしない。しない、というより、できない。あの連中にとって人形は守り神だ。呪いだの止めるだのという発想が、そもそも頭にない」
朔は黙っていた。志津は再び炭をつつき始めた。
「綾部の娘が選ばれたか」
突然の問いに、朔は驚いて顔を上げた。
「なぜ、それを」
「見当がついただけだ。あの家の年頃の娘といえば、あれしかいない」
志津は炭を置き、初めて朔の方へ顔を向けた。その目は、先ほどよりも暗い色をしていた。
「紬か」
名前を呼んだときの声に、わずかな翳りがあった。朔はそれに気づいたが、あえて何も言わなかった。
「彼女を助けたいんです」
朔がそう言うと、志津は鼻を鳴らした。嘲笑とも、諦念ともとれる音だった。
「若い男はそう言う。いつもそう言う」
「いつも、というのは」
「あんたには関係ない」
そっけなく言って、志津は立ち上がった。朔を追い出す気だと分かった。朔は踏みとどまり、もう一度問おうとした——そのとき、目の端に何かが引っかかった。
棚だった。
土間の脇に古い板棚があり、そこに薬瓶や干した草が並んでいた。その中の一角だけ、他とは違う雰囲気があった。棚の隅に、小さな木箱が置かれていて、その縁から布地が垂れ下がっていた。
白と朱の、複雑に織られた布だった。
鶴の羽根を思わせる模様が、細い金糸で縫い取られている。朔はそれが何であるか、即座には分からなかった。だが、古い帳面のあの挿絵——花嫁衣装の描写と、その紋様が重なった瞬間に、全身の皮膚が粟立った。
花嫁衣装の切れ端だ。
それも、ただの切れ端ではない。長い年月にもかかわらず色は鮮やかで、大切に、何かを包むように折り畳まれていた。
「それは」
志津が振り返った。朔の視線が棚の方へ向いていることに気づいて、その表情が初めて動いた。
怒りではなかった。
もっと深い、名前のない感情が、老婆の顔に一瞬だけ滲んで、すぐに消えた。
「出ろ」
声は静かだったが、有無を言わせない響きがあった。
「そこには触れるな。見るな。出ていけ」
朔は反論できなかった。棚の前に立つ志津の背中が、何か巨大なものを庇うように見えたからだ。
土間へ戻り、靴を履きなおして戸口に立つと、志津が背後から声をかけた。
「白瀬」
名前だった。先ほど自己紹介したとき、志津は「知っとる」と言った。いつ、誰から聞いたのか。
「人形には近づくな」
それだけだった。
朔が振り返ると、戸はもう閉まっていた。
吹雪の中に立ち尽くし、朔は先ほどの言葉を反芻した。また来た、という声。棚の切れ端。そして——人形には近づくな、という言葉は、警告なのか、それとも別の何かなのか。
雪が頬を叩いた。
また来た、と志津は言った。確かにそう言った。だが、朔がこの家を訪れたのは今日が初めてだ。
ならば、誰が来たのか。
朔は白い闇の中を歩きながら、自分の知らない自分について、初めて考えた。山が遠く、低く鳴った。