朝の光が薄く、白妻村の空は低かった。
窓の外、昨夜の雪が校庭を均一に覆い、足跡ひとつない白さがどこまでも続いている。朔はチョークを持ったまま黒板の前に立ち、しばらくその風景を眺めた。あの影のことを考えていた。人形めいた顔。ぬめりとした暗さの中に浮かんでいた輪郭。朝になれば馬鹿らしいと笑い飛ばせると思っていたのに、冷静であるはずの頭の中に、あの白い顔はしつこく貼りついていた。
合理的に考えろ、と朔は自分に言い聞かせた。
だから、授業の準備をしながら、こっそり動き出した。
分校の職員室の隅には、誰も触れないままになっている古い棚があった。引き戸が歪んで完全には閉まらず、隙間から埃の匂いが漏れている。朔が赴任してきた日に一度だけ開けてみたが、中には昔の出席簿や行事記録が無造作に積まれているだけだったので、そのままにしておいた。
しかし今朝は違う目的があった。
村の歴史を、生徒たちに教えることができないか。そう考えたのは純粋に教育上の動機からだったが、幸爺の話を聞いた後では、その動機に別の色が混じっていた。記録があるはずだ。百年前の出来事が本当に起きたなら、どこかに痕跡が残っている。呪いでも伝説でも、現実の出来事は必ず文字になる。人間とはそういう生き物だ。
棚の引き戸を開け、朔は積み上げられた文書の束を丁寧に取り出しはじめた。
古い出席簿。昭和初期の運動会の記録。明治時代に手書きされた何かの帳面。ページを繰ると、細かな文字が墨で几帳面に並んでいる。村の年間行事の覚書らしく、田植えの日取りや収穫祭の段取りが淡々と記されていた。
その中に、一冊だけ様子の違うものがあった。
表紙は他のものより厚く、黒ずんだ布が貼られている。朔はそれを取り出し、机の上に置いた。開くと、最初の数ページは村の地図だった。手書きの粗い線で描かれた山の輪郭、川の流れ、点在する家々の配置。字が添えられており、今は使われていない地名がいくつも記されている。そのどれも朔には読み解けなかったが、一か所だけ、太く丸で囲まれた場所があった。
山の中腹。今の道からは外れた場所。そこに「奉祀処」とあった。
朔の指先が止まった。
ページを繰る。地図の後には、文章が続いていた。読み進めるうちに、朔の背筋が、ゆっくりと冷えていった。
明治四十三年、春。村の祭祀に関する記録だった。その年の冬に「山の神への奉納」として、一人の娘が選ばれたこと。娘の名は「桃」、年は十六。村の祭祀を束ねる家の縁戚にあたる者で、生来、夢見がちで口数の少ない娘だったと書かれている。婚礼の支度が整えられ、花嫁衣装が誂えられ、人形師を呼んで市松人形が作られた。人形には桃の毛髪と、衣装と同じ布が使われたと、記録は詳細に述べている。
奉納の日、桃は自分の足で山へ入った。
それが最後だった。
朔は息を吐いた。読み進めながら何度かそうした。息を継ぐことを忘れそうになるから、意識的に吐いた。
しかし記録はそこで不自然に途切れていた。ページをめくると、次のページの上半分が丁寧に切り取られていた。鋭利な刃物で、定規を当てたように真っ直ぐに。残った下半分には、文章の続きが始まっていたらしい途中の一文が辛うじて残されていた。
——しかれどもその年の秋、奉納の——
そこで切れている。
何が書いてあったのか。朔は切り口を指でなぞった。紙の断面は古びているが、他のページと同じように黄ばんでいる。つまり、最近切られたのではない。かなり古い時代に、誰かが意図的に削除した。
なぜ。
何を隠したかった。
朔は帳面を閉じ、しばらく動けなかった。窓の外で風が鳴り、雪が舞い上がった。
午前の授業が始まった。
朔のクラスは九人。過疎の村の分校らしく、異なる学年が一緒に学ぶ複式学級だった。中でも紬は一番年上で、他の生徒たちとは少し距離を置いて座っている。それが本人の意志なのか、他の子どもたちが自然とそう距離を取るのか、朔にはまだわからなかった。
国語の時間、朔は板書しながら生徒たちに書き取りをさせていた。
静かな時間だった。鉛筆が紙を走る音だけが室内に満ちていた。
その音が、不意に止んだ。
朔が振り返ると、紬が動いていなかった。
座ったまま、鉛筆を持つ手が宙で止まっている。正確には、止まっているのではなく、落ちる途中だった。指から力が抜けて、鉛筆がゆっくりと離れていく、その瞬間に時間が止まったように見えた。そして鉛筆が床に落ちた音で、朔は我に返った。
他の生徒は誰も気づいていない。各々の問題に夢中だった。
朔は紬に近づいた。
「綾部」
返事がない。
呼びかけても、紬は顔を上げない。視線は窓の外に向いていた。いや、窓ではない、と朔は気づく。焦点が合っていない。どこか、この教室の中にはない場所を見ている。
「綾部紬」
朔は声を低くして、もう一度呼んだ。
今度は、紬の目がゆっくりとこちらを向いた。瞳が朔の顔を捉え、焦点が戻ってくる。
「……先生」
「どうした」
「すみません」と紬は言った。感情のない、平坦な声だった。「聞こえていたので」
「何が」
紬は少し間を置いた。
「雪の音が」
それだけ言って、紬は床の鉛筆を拾い、ノートに視線を戻した。何事もなかったように書き取りを再開する。朔は紬の横顔をしばらく見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
外は無音だった。雪は積もっているが、降っていない。風もない。
雪の音、などというものは、今この瞬間、どこにも存在していなかった。
放課後、朔は職員室に戻り、帳面を再び開いた。桃の記録のページ。切り取られた半分。残った一文。
そして、もう一度、地図のページに戻った。
奉祀処と記された丸印。山の中腹のその場所が、今の地形に当てはめるとどこになるのかを、朔は改めて考えた。細い指で輪郭をなぞる。川の流れ、山の稜線、村の配置。
そのとき気づいた。
地図の中に、もう一か所、小さく何かが書かれている。奉祀処の丸印の隣、ほとんど読めないほど小さな文字で、二文字だけ。
朔は目を細め、蛍光灯の下に帳面を持っていった。
——桃在。
桃は、在る。
朔はしばらくその二文字を見つめた。誰が書いたのか。いつ書いたのか。奉納の記録と同じ手なのか、それとも後から別の誰かが書き足したのか。
確かめる手段は、今はない。
しかし朔の胸の中で、何かが静かに動き出した。学術的な好奇心などではない。もっと冷たい、もっと切実な感覚だった。あの帳面の切り取られたページ、紬の焦点の外れた視線、幸爺が語った言い伝え、窓に浮かんだ白い顔——それらが一本の線でつながろうとしている。
桃は、今も、どこかに在る。
百年が経っても、まだ。
朔は帳面を閉じ、窓の外の雪山を見た。山は暮れかけた空の下で黒く重く立っており、頂は雲に隠れて見えない。その奥のどこかに、奉祀処がある。
そして朔には、なぜか、その場所を以前にも知っていたような気がしてならなかった。
知るはずのない土地の地図が、頭の中で像を結ぼうとしている。それが何を意味するのかを、今日のところはまだ考えないようにした。