雪は降り止まなかった。

 朔が白妻村に来てから十日が過ぎたが、空が晴れた日はまだ一度もない。校庭の雪はすでに膝の高さまで積もり、子供たちは休み時間になっても外に出ようとしなかった。窓の向こうで白い空が白い地面と溶け合い、どこが境界なのかさえ曖昧な昼前、朔は職員室の隅でひとりお茶を飲んでいた。

 「先生、ストーブの前においでなさい」

 声をかけてきたのは、村田という用務員の老人だった。村田幸蔵、六十八歳。子供たちからは「幸爺(こうじい)」と呼ばれている。赴任初日から朔に気さくに声をかけてくれた、この学校で唯一緊張感のない存在だ。

 「ありがとうございます。少し書き物があって」

 「書き物は後でもできる。体が冷えると、この村では長生きできませんよ」

 おかしなことを言う、と思いながらも、朔はノートを閉じてストーブの傍らに移った。幸爺はすでに折りたたみ椅子に腰を下ろし、自分の湯飲みから白い湯気を立ち上らせていた。

 「幸爺さんは、ずっとこの村に?」

 「生まれた時からここですよ。出ようとは思わなかった」

 「出ようとは、とは?」

 幸爺は少し笑った。表情の奥に何かが引っ込むような、そういう笑い方だった。

 「出られる村と、出られない村がある。ここはね、出られない側です」

 冗談めかしてはいるが、声の質がわずかに変わった気がした。朔は湯飲みを両手で包みながら、前日の記憶を呼び起こした。寄合の帰り道に見た、誰も踏まない雪の区画。分校の壁に針で留められた紙人形。綾部透の、穏やかすぎる目。

 「幸爺さん。この村に、変わった言い伝えはありますか」

 問いかけると、老人は一瞬だけ手の動きを止めた。

 「変わった、というのはどんな意味でですか」

 「たとえば、子供たちが怖がるような話、とか」

 幸爺はしばらく沈黙した。窓の外で風が鳴り、屋根から雪が滑り落ちる音がした。

 「……花嫁人形の話は、聞きましたか」

 聞いていない、と朔は答えた。老人は湯飲みを膝の上に置き、ゆっくりと話し始めた。

 百年ほど前のことだという。白妻村に桃という名の少女がいた。器量がよく、気立てもよく、村人から愛された娘だったが、十六の年に突然、花嫁として奉納された。相手は人ではない。山の神、あるいは村そのものとでも言うべき何かだ。そうすることで村が守られる、という習わしが、いつの頃からかこの地に根付いていた。

 桃は従順に嫁いだ。泣かなかったと言い伝えられている。花嫁装束を纏い、白粉を塗られ、市松人形を抱いて山へ入り、そのまま戻らなかった。

 「それ以来、その人形が……」

 幸爺の声が細くなった。

 「人形に、桃の魂が残った。そう言われとります。人形はその後も村に置かれて、十年か二十年に一度、十六の娘を選ぶ。選ばれた娘は夢の中に引き込まれて、少しずつ……こちら側から遠くなっていく」

 「遠くなるというのは」

 「薄くなる、とでも言えばいいか。意識が、体から剥がれていくような。最後には——」

 そこで幸爺は口をつぐんだ。

 朔は「都市伝説みたいな話ですね」と言いかけて、やめた。笑い飛ばしてしまいたかったが、老人の顔が、そうする気を失わせた。

 「今は、誰か選ばれているんですか」

 問いを口にした瞬間、幸爺の顔色が変わった。表情が固まり、目線が朔から逸れて、遠い何かを見るような形になった。

 「……先生」

 「はい」

 「あんまり、深く聞かんほうがいい」

 声は静かだったが、そこには明らかな怖れがあった。老人は立ち上がり、折りたたみ椅子を壁に立てかけた。もう話す気がない、という動作だった。

 「幸爺さん」

 「ストーブから離れると体に毒だ。ゆっくり温まっていなさい」

 それだけ言って、老人は廊下の奥へ消えた。足音がだんだん遠ざかり、やがてどこかで扉の閉まる音がした。

 職員室にひとり残された朔は、しばらく動けなかった。

 ストーブが低く唸っている。その音だけが、部屋を満たしていた。

 ——誰か、選ばれているんですか。

 自分の問いが耳の奥で反響した。幸爺が答えなかった理由は、おそらく問いそのものへの答えが既にそこにあったからだ。

 紬の顔が浮かんだ。あの無表情な、感情の底が見えない目。感情がないのではなく、感情を表へ出す必要を、もう感じていないのかもしれない——そんな予感が、朔の胸の中で静かな根を張り始めていた。

 その夜、眠れなかった。

 教員住宅は分校に隣接した木造平屋で、断熱材など期待できない古い造りだった。ストーブを消すと室温は急速に落ち、布団の中に入っても指先がじんじんと痺れた。窓の外では風が絶えず鳴り、雪を運んでくる。積もっては解け、また積もる。この村の雪だけは、どういうわけか溶けきらずに層を成していく。

 朔はそんな夜の音を聞きながら、幸爺の話を反芻した。

 ——桃の魂が残った。

 ——選ばれた娘は、こちら側から遠くなっていく。

 合理的に考えれば、説明はいくらでもできる。長年の集落内での婚姻による閉鎖性、外界と断絶された環境が育む集団的な信仰体系、それが少女の心身に影響を与える心因性の反応——教育大学で学んだ言葉が、次々と頭に並んだ。だがそれらの言葉は、今夜は妙に空虚に感じた。

 午前一時を過ぎた頃、朔はふと目を開いた。眠っていたわけではない。意識は薄ぼんやりと覚醒したまま、ただ天井を見つめていた。

 何かが変わった、と思った。

 音ではなかった。気配、と呼ぶほかない何かだ。空気の重さが違う。窓の外の風の鳴り方が、わずかに変質したような。

 朔はゆっくりと首を動かし、窓を見た。

 カーテンは引いていなかった。それが失敗だった、と後になって思う。外は雪の反射でうっすら白く、暗闇の中でも輪郭が見える夜だった。

 窓の外に、何かが立っていた。

 人の形、だと思った。白く、細く、こちらを向いている。風で揺れることもなく、ただそこに、立っていた。

 朔は声を出せなかった。体が動かなかったわけではない。動く必要がある、という判断が、どこかで止まっていた。

 その何かは、顔があるべき場所に、顔を持っていなかった。

 いや、違う。顔は、あった。ただそれは、人間の顔ではなかった。白い肌に、細く引かれた黒い眉。朱を差したような小さな唇。どこか人形めいた、整いすぎた顔。

 そして目が合った、と朔は感じた。

 感じた、というだけで、相手に目があったかどうかは分からない。ただ、見られている、という確かな感覚が皮膚の下を走り、朔は反射的に体を起こした。

 立ち上がり、窓に近づき、外を見た。

 何もなかった。

 雪が積もった地面があるだけで、人の立った跡もなければ、足跡すら残っていなかった。踏まれていない雪が、月明かりの中でただ白く光っていた。

 朔はしばらくそこに立って、外を見続けた。

 風が鳴った。雪が舞い上がり、視界を白く濁した。

 ——選ばれた娘は、こちら側から遠くなっていく。

 老人の声が、また耳の奥で鳴った。

 朔はゆっくりとカーテンを引いた。窓の外を遮断しても、何かが消えた気はしなかった。むしろ今の今まで、自分が見ていたものの正体を確かめる術が、完全に失われた気がした。

 布団に戻り、目を閉じた。眠れるとは思っていなかった。

 頭の奥で、ひとつの問いが繰り返された。

 あれは、紬のことを見に来たのか。

 それとも——朔、お前を見に来たのか。

 夜が明けるまで、答えは出なかった。

花嫁人形と、溶けない雪の村

4

言い伝えの輪郭

氷室 宵子

2026-05-16

前の話
第4話 言い伝えの輪郭 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版