夜明けの光は、いつも遅い。

 大気の層が厚く澱んでいるせいで、東の空が白み始めてから島が本当の朝を迎えるまでに、一時間近くかかる。その曖昧な時間帯を、汐音はずっと「夜と昼が話し合いをしている」と思ってきた。どちらが先に退くか、どちらが先に踏み出すか。声もなく、光の濃淡だけで交わされる、長い交渉。

 今朝は、その交渉の途中に、汐音は手記を開いた。

 遙の部屋は海側に面している。窓の桟に塩が白く結晶し、カーテンの裾がわずかに湿っていた。枕元のランプは一晩中つけたままで、電球の周りに小さな蛾が二匹、貼りついて死んでいた。遙はまだ眠っていた。熱は昨夜よりいくらか下がっていたが、呼吸は浅く、乾いた唇が時折かすかに動いた。何かを語りかけているのか、それとも夢の中で謝っているのか、汐音には判断がつかなかった。

 手記は、枕の下にあった。

 看病の合間に寝具を整えようとした汐音の指先に、角の固いものが触れた。引き出すと、それは黒い表紙の、小ぶりなノートだった。表紙には何も書かれていない。背表紙にも、タイトルも年号もない。けれど汐音はすぐにわかった。遙の指の脂が染みた角の黒ずみ方、何度も同じ箇所を開いたせいで緩んだ綴じ糸の弛み、かすかに漂う煙草と機械油の混じったあの匂い。

 これは、遙が長い年月をかけて触り続けたものだ。

 汐音は椅子を引き、窓の光の届く場所に座った。ランプの明かりは心許なく、夜明けの灰色の光のほうがまだ目に優しかった。表紙をめくる前に、一度だけ、眠っている遙の顔を見た。老いた頬の皺が、ランプの光の角度で深く見えた。

 汐音は、表紙をめくった。

   *

 最初の頁は、日付から始まっていなかった。

 遙の字は、汐音が思っていたよりずっと小さかった。几帳面に、けれど少し右肩下がりに、文字が並んでいた。インクの色が頁ごとに違う。一度でなく、長い時間をかけて、何度も加筆したのだとわかった。

 冒頭の一文を読んで、汐音は息を止めた。

   汐音を星語りの血から遠ざけるために、この島へ連れてきた。

 それだけだった。前置きも、経緯も、感情の説明もない。日記のようでいて、日記ではない。誰かへの告白のようでいて、宛名もない。ただその一文が、まるで長い間胸の内で熟成させてきたものを、ついに吐き出したように、頁の上半分に静かに存在していた。

 汐音は、二度、三度、読み返した。

 星語りの血。

 その言葉は、汐音の中でゆっくりと像を結ぼうとして、うまくいかなかった。星語りとは、地下の装置と繋がる何かだということは、昨夜からの記憶でかろうじて輪郭を持っていた。遙が断片的に語り聞かせてきたリズム、あの青白く光った壁面の記号、自分の指がそれに触れた瞬間の、電流に似た感覚。

 けれど「血」という言葉は、装置や記号とは別の場所に根を張っていた。血は、生まれる前からある。選んでいない。与えられた、あるいは奪われた、何かだ。

 汐音は次の行を読み進めた。

 続きはこうあった。

   あの子は何も知らないほうがいい、と最初は思っていた。知ることで追われる。知ることで使われる。この島の霧と塩の中で、ただの漁師の娘として老いていけるなら、それが最善だと。

   しかし装置が動いた日から、私の確信は揺らいでいる。汐音の手が触れたとき、あれは応えた。血が呼んだのか、それとも意志が呼んだのか、私にはもうわからない。

 文章はそこで一度区切られ、インクの色が変わっていた。後から書き足した部分だ。文字がわずかに震えている。病が始まった後か、それとも手が老いたからか。

   遠ざけることが、守ることだと思っていた。しかし遠ざけることは、奪うことでもあった。汐音には詫びなければならない。ただ私には、残された時間が——

 文章はそこで終わっていた。

 終わっていた、のではなかった。

 汐音は次の頁に目を落として、気づいた。頁が、ない。綴じ糸の根元に、紙の白い断面が残っていた。丁寧に、しかし確実に、何頁かが引き剥がされていた。切り口は直線ではなく、わずかに波打っている。ハサミではない。指で、ゆっくりと、引き裂いたのだ。

 汐音は手記を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。見間違いではなかった。三頁分、あるいは四頁分の断面が、綴じ糸の内側に白く並んでいた。

 誰が、破ったのか。

 遙が、自分で破ったのか。それとも誰かが、遙の知らないうちに。

 汐音は枕元の遙を見た。眠りの中の老人の顔は、何も語らなかった。ただ白い天井を向いて、浅く息をしていた。問い詰めることはできない。熱がまだ引いていない。喉が乾いているだろう、水を替えなければ、というとりとめのない考えが頭を過ぎって、汐音は自分が今、何かから逃げようとしているのを感じた。

 星語りの血。

 その言葉は、今度は逃がさなかった。

 汐音は窓の外を見た。夜明けの交渉が、そろそろ決着しようとしていた。白みかけた空の端に、霧の帯が横たわっている。星など、どこにも見えない。生まれてからずっとそうだった。星を見たことがない。空に光る点を、汐音は写真や映像でしか知らない。

 なのに自分の中に、星語りの血が流れているかもしれない。

 おかしな話だ、と汐音は思った。おかしくて、少し笑えた。笑えたのは一瞬で、その後にじわじわと、期待とも恐れともつかないものが胸の底から滲んできた。

 手記の中で遙は「使われる」と書いた。誰に? 何のために? 装置のある地下を思った。青白く光った壁を思った。自分の手のひらに残った、あの微細な振動を思った。

 そして、透真のことを思った。

 昨夜、地下への梯子を上りきったとき、透真は何か言いかけて、止めた。あの表情は、知っている顔だった。何かを知っている人間が、知っていることを言うべきかどうか迷うときの顔。研究機関から来た男が、なぜあんな顔をするのか。

 汐音は手記をもう一度手に取り、破られた頁の断面に指先を当てた。紙の繊維が、指腹にざらりと触れた。

 これは偶然剥がれたのではない。意図がある。しかし遙が破ったとすれば、なぜ手記そのものを隠さなかったのか。枕の下に置いたまま、続きだけを消した。まるで、最初の一文だけを汐音に読ませるために。

 まるで、入口だけを残したように。

 ランプの蛾が、風もないのにかすかに揺れた。遙の口がまた動いた。今度は汐音の耳に、ほんのわずかに届いた。

「……しおね」

 呼ばれた気がして、汐音は顔を上げた。しかし遙は目を開けていなかった。夢の中で呼んでいるのか、それとも謝っているのか、やはりわからなかった。

 汐音は手記を膝の上に置いたまま、しばらくそこにいた。窓の外で、夜明けの交渉がようやく終わった。霧を透かして、灰色の光が島を覆っていった。星のない朝が、また始まった。

 地下には、まだ装置が眠っている。

 破られた頁の続きは、どこにある。

 汐音は立ち上がり、手記をそっと上着の内側に収めた。遙の水を替え、額の布を新しくして、部屋を出た。廊下に出ると、階段の下から潮の匂いがした。燈台の脚元で波が砕けている音が、かすかに床を伝って足裏に届いた。

 地下への扉は、昨夜のまま閉まっていた。

 汐音は扉の前に立って、取っ手に手をかけた。引かなかった。ただ、触れていた。冷たい金属が、ゆっくりと手のひらの熱を吸っていった。

 どこかで、信号が鳴り始めた。

 音ではなかった。光でもなかった。それは汐音の胸の奥で鳴る、あの特異な感覚だった。パターンを読み取る感覚が、今は何かを待っているように静まり返っていた。

 扉の向こうで、装置が待っている。

 破られた頁の続きも、きっとそこにある。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

4

養父の手記、最初の頁

沖野汐里

2026-05-17

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