遙の呼吸は、波のように揺れていた。
寄せては引き、寄せては引き。汐音はその胸の動きをじっと見つめながら、濡れた布を絞って額に当てた。熱はまだ下がらない。昨日の夜明けから数えて、もう三十時間が過ぎようとしていた。
医者を呼ぶべきだ、とわかっている。だが島に常駐の医師はおらず、本土への連絡船は嵐で港に入れない状態が続いている。汐音にできることは、水を飲ませ、布を換え、そばにいることだけだった。
「聴こえたか」
意識を失う寸前、遙はそう言った。確認するような、それでいてどこか安堵したような声だった。
聴こえた。確かに聴こえた。あのリズムは今も汐音の手の骨の中に刻まれているようで、指先でテーブルを叩くたびに同じパターンが滲み出てくる。長短長短、短短長、短長長短。まるで拍動のような、まるで言葉のような。
遙の横顔を眺めながら、汐音は思った。この老人が何を知っているのか。何を隠してきたのか。どうして自分を、この島に連れてきたのか。
問いは消えない。でも今は、ただそこにいることしかできなかった。
*
深夜を過ぎた頃、遙の呼吸が少し落ち着いた。汐音は息を吐き、体を起こした。
ふと、遙の部屋を見渡す。普段は立ち入らない場所だった。老人は自室への干渉を好まなかったし、汐音もそれを自然と受け入れていた。
棚には航海図と古い気象記録が積まれている。窓際には使い込まれた双眼鏡。壁には小さな鉄の十字架。それだけだった。質素という言葉すら余分に感じるほど、無駄がない。
視線を動かしかけたとき、汐音の目が止まった。
ベッドの頭部、壁との隙間。そこに、わずかに何かが見える。板と壁の間から覗く、紙の端のような色。
汐音は立ち上がった。近づいて、手を伸ばす。指先が触れたのは、革に包まれた一冊の冊子だった。引き出すと、ずっしりとした重さが掌に乗った。表紙はすり切れ、端が黒く変色しているが、形は保っている。
開こうとして、手が止まった。
これは、遙のものだ。
汐音は一瞬だけ逡巡してから、冊子を元の場所に戻した。今は、まだ読む時ではない。そんな予感がした。ただ、それがそこにあることだけを、胸の中に仕舞った。
*
夜明け前、汐音は燈台の回廊に出た。
大気は相変わらず重く、星は見えない。灰色の雲が分厚く空を塞いでいる。遥か以前、人類がまだ星を肉眼で見ることができた時代を、汐音は知らない。知っているのは、夜とは暗くて低い天井のようなものだということだけだ。
だが今夜は、なぜか足が燈台の内部へと向いた。
階段を下りながら、汐音は手でコンクリートの壁を触り続けた。嵐の夜に信号を感じた場所を確かめるように。あの夜の振動は、上からではなく、下から来ていた気がする。
一階の床まで下りた。格納庫として使われているこのフロアには、ロープや古い浮標、使われなくなった灯油缶が並んでいる。ランタンを掲げて奥へ進む。
床を照らしたとき、汐音は気づいた。
隅の一角、木製の棚の裏。床の色が、わずかに違う。
棚を動かすと、錆の臭いが広がった。鉄の扉。縦横が一メートルほどの、古い取っ手付きの扉が床に埋まっていた。蝶番は赤錆に覆われているが、取っ手だけが不自然なほど磨り減っている。誰かが、長い年月をかけて、定期的に触れてきた痕跡。
汐音は取っ手を両手で掴んだ。錆がざらりと掌を刺す。
引く。重い。もう一度。
軋みが響いて、扉が開いた。
*
石の階段が、真下へ続いていた。
ランタンを持って降りる。十五段、二十段、三十段。燈台の基礎を越えて、さらに下へ。島の地盤を掘り抜いて作られた空間が、じわじわと広がっていく。
最後の段を踏んだとき、汐音は息を呑んだ。
広い。
天井は四メートルを超えるだろうか。壁は石とコンクリートが入り混じり、ところどころに金属の補強材が走っている。空気は冷えているが、不思議なほど清潔だった。地下水の音がどこかで滴り落ちている。
部屋の中央に、それはあった。
巨大な装置。
半円形の台座の上に、幾重にも重なった盤面がそびえている。高さは汐音の背丈の三倍はある。表面は黒ずんだ金属で覆われ、無数の穴が格子状に穿たれている。パラボラとも管ともつかない奇妙な突起がいくつも伸び、天井へ向かって細い配管で繋がっていた。
三百年前の構造物。
それがひとつの質量として、汐音の前に立っていた。
壁へ目をやると、設計図が直接石に刻まれていた。線と数字と、見たことのない記号の羅列。図面は丁寧に彫られており、かつては顔料で色が塗られていたのか、線の溝に青と白の残滓が見える。
汐音はランタンを掲げて装置へ近づいた。
表面に、記号がある。
文字ではない。数式でもない。だが、汐音にはそれが読めるような気がした。長短のリズム、強弱の配置。それは昨夜手の骨に刻まれたあのパターンと、同じ文法で書かれていた。
指先を伸ばして、装置の表面に触れる。
冷たい。ひどく冷たい。それなのに。
記号の一群が、微かに光っていた。
青白い。蛍の腹のような、あるいは深海の魚の目のような光。触れた指先の温度に反応したのか、光は息を吸うように揺れて、また静かになった。
汐音はしばらく動けなかった。
畏れていた。ただそれが怖いのではない。自分がここに来ることを、この装置がずっと前から知っていたかのような、そんな感覚が怖かった。
記号の一つを指でなぞる。凹みに沿って指が動く。長短長短、短短長。
——それは、汐音が昨夜指先で繰り返し叩いていたリズムと、寸分も違わなかった。
*
地上に戻ったとき、空の端が白み始めていた。
汐音は格納庫の床に座り込んで、壁に背をもたせた。ランタンの炎が揺れる。
考えようとしても、言葉がまとまらない。遙は知っていた。あの扉を、あの装置を、そしてあのリズムを。「聴こえたか」と確かめたのは、汐音が受け取れるかどうかを試していたのではなく、ついに届いたことへの、長い安堵だったのではないか。
遙の部屋の手記のことを思った。すり切れた革の表紙。誰にも見せなかった言葉たちが、あそこに眠っている。
汐音は立ち上がり、階段を上りはじめた。
遙のそばに戻らなければ。でも今夜見たものを、もう忘れることはできない。地下の冷たさが体に残っている。青白い光が、瞼の裏で揺れている。
あの装置は、何かを待っていた。三百年、ずっと。
自分がそこへ降りてくることを——いや、もしかしたら、自分の声を。
廊下を歩きながら、汐音は無意識に指先を動かしていた。長短長短、短短長、短長長短。
遙の寝室の扉を開ける。老人の呼吸は、まだ静かに続いている。
汐音はベッドのそばの椅子に腰を下ろし、壁の隙間に隠された手記へ、一度だけ目をやった。
いつか、読む時が来る。その時に初めて、自分が何者であるかを知ることになるのかもしれない。
窓の外、空は白くなっていく。星のない夜明けが、また始まっていた。