扉の前で、汐音は立ち尽くしていた。
地下へと続く鉄の扉は、さびついた蝶番を震わせながらも閉じたままだ。手記の最後の行が、視神経の奥に焼きついて離れない。――汐音を星語りの血から遠ざけるためにこの島へ連れてきた。破り取られた頁の切れ端が、読め、と囁くような気がした。
そのとき、桟橋の方から音がした。
木材が軋む音。波に揺れる小舟が杭に当たる、あの単調な衝撃とは違う。何かが、島に着いた音だ。
汐音は扉から手を離し、階段を駆け上がった。
***
桟橋の端に、一艘の白い小舟が繋がれていた。
汐音の知っている島の船はどれも灰色か錆茶色だ。塩と風雨が色を奪うから。だがその舟だけが、傷だらけながらも白い塗料を保っていた。よく見ると船体の側面に、見慣れない機関のマークが薄く刻まれている。正六角形の中に、波線を三本重ねた紋章。
舟の主は、桟橋の上で無遠慮に背伸びをしていた。
背の高い青年だった。外套の前を開いたまま、頭には目深にキャップをかぶっている。年は汐音より少し上だろう。目が合うと、その男は当たり前のように手を挙げた。
「やあ。誰かいてよかった。この島、人が住んでるかどうかも分からなくて」
汐音は黙って彼を見た。
「暦木透真。十九歳。まあ……調査員みたいなもの、かな。一応、星語り研究機関から来ました。島の管理者の方に話を聞きたいんですが」
星語り、という言葉が空気の中に落ちた。汐音の背筋が一本の糸のように張る。男の顔から目を離さないまま、彼女は頷いた。
「燈台守は病床です。私が養女です」
「ああ、そうか。それは……」透真は一瞬、表情を曖昧に動かした。「悪いタイミングだったね」
その「悪いタイミング」という言葉が、汐音には奇妙に響いた。謝罪にも同情にも聞こえない。ただ状況を確認しているような、事務的な軽さ。汐音は彼の目を見た。キャップの庇の下から覗く目は、口元の飄々とした笑みとは少しだけ違う角度に向いていた。
笑っていない目だ、と汐音は思った。
***
島には訪問者を泊める宿などない。汐音は透真を燈台の一階、作業室として使っている小部屋に通した。遙の様子を見てきた看護師のノムラさんが昼前に帰る際、「今夜は容態が落ち着いてます」と言い置いていったから、汐音には少しだけ時間があった。
透真はキャップを膝の上に置き、外套のポケットから薄い端末を取り出した。
「本題を話す前に聞いていいですか。蒼井遙さん……燈台守さんがここに赴任したのは、いつ頃のことか知ってますか」
「私が物心つく前から」
「三十年は経ちますか」
「知りません」
透真は端末に何かを打ち込み、また汐音を見た。
「ストレートに聞きます。この燈台の地下に、何かある。機関の観測データに、ここ数日で断続的な信号反応が出ています」
汐音の心臓が、一拍遅れて動いた。
「見せてください」
透真は少し驚いたように眉を上げたが、端末を差し出した。
画面には、折れ線グラフのような波形が表示されていた。横軸が時刻、縦軸には汐音の知らない単位が並んでいる。しかし波形の形そのものは読めた。三日前の夜から、不規則な山がいくつも刻まれている。その間隔と強弱のパターンが、汐音の頭の中で何かと重なった。
地下で聞いた音だ。
壁の向こうから響いてきた、あの断続的な振動。汐音はパターンを口の中で無意識になぞった。短短長、短長短。呼吸のような反復。
「これ、パルスですか」と汐音は尋ねた。
「そう。電磁波の一種だけど、既存の通信プロトコルには一致しない。三百年以上前の規格に近い波形だって、機関の解析班が騒いでて。それでぼくが飛ばされてきた」
「三百年」
「はい。あなたは……」透真は少し言葉を選ぶように間を置いた。「星語りという言葉を知ってますか」
汐音は答えを返さなかった。代わりに透真の目を真っすぐ見た。彼はその沈黙を否定と取らなかったようで、端末を引き戻しながら話を続けた。
「研究機関の正式名称は『星語り文化遺産保存研究機関』。長いから通称は機関、です。三百年前に途絶えた、星と人類の対話の記録を集めて研究している組織。そこの若手調査員がぼくというわけで」
「組織、というからには上がいる」
「もちろん。理事長がいます。瑠璃宮クロエという人で」
その名前を、汐音は初めて聞いた。しかし透真が名前を口にした瞬間、その端整な顔に薄く引いた翳りのようなものを、汐音の目は捉えていた。一秒もない、ほとんど無意識の収縮。
この人は、その人物に対して何か感じている。
汐音は黙ってその観察をしまい込んだ。
「機関の目的は保存と研究、と言っていましたね」
「……はい」
「なのに派遣先の燈台守は病床で、調査員は十九歳の一人。星語りの研究というには、軽い体制だと思いませんか」
透真は一瞬、目を細めた。それから声のトーンを変えずに答えた。
「おっしゃる通りです。内部の予算配分が偏っていて、フィールド調査は……あまり歓迎されない方針なので」
「歓迎されないのに来た」
「ぼくは少数派なんです、機関の中で」
汐音は端末のグラフを思い浮かべた。三日前から始まった信号。地下への扉の前に立ったあの夜、汐音が初めて振動を感じた夜と重なる。
端末を指さして、汐音は言った。
「その資料を、見せてもらえますか。星語り解読の断片資料があると言っていた」
透真の表情が、初めて少しだけ変わった。油断、ではない。驚きに近い何か。
「……よく覚えてますね、そんなこと言いましたっけ」
「桟橋で言いました。調査員みたいなもの、星語り研究機関から来た、と言った後に。鞄の中に資料があるはずです」
透真は汐音をしばらく見てから、静かに笑った。今度は目も一緒に笑っていた。
「手強いな」
彼は鞄の奥から、薄い合成紙のファイルを取り出した。表紙には何も書かれていない。中を開くと、数頁分の文字列と波形の図版が並んでいた。汐音はページをゆっくり繰った。
記号の羅列。特定のパターンが繰り返されながら変形していく構造。汐音はそれを見た瞬間、胸の奥で何かが鳴るような感覚を得た。楽譜に似ている、と思った。音符ではないが、時間軸の上に配置された意味の単位。
「これ、読めますか」と透真が聞いた。
汐音は首を振った。しかし次の瞬間、ある段落の波形を指で辿ると、あの地下の振動のリズムが確かに手の中に蘇った。
「読めない」と汐音は言った。「でも、これと同じものを、体で聞いたことがあります」
透真が息を呑む音を、汐音は聞いた。
***
夕方の光が窓を斜めに切った頃、透真は再び桟橋へ戻り、舟から小さなバッグを取ってきた。今夜は島に泊まる、という判断を汐音はすでに予測していたから、毛布の在り処を教えた。遙の寝室の隣で眠られることだけは避けたかったので、作業室のソファを指した。
夕食を用意しながら、汐音は窓越しに海を見た。
大気の層が厚く、空は星一つ見えない。分厚い雲の下、海だけが黒く光っている。三百年前、この海の向こうから、最初の信号が届いたのだろうか。そしてその信号を受け取った誰かが、燈台の地下に設備を作った。
遙は、それを知っていた。
だから手記に書いた。汐音を、星語りの血から遠ざけるために。
「血から遠ざける」という言葉は、「危険から守る」と読めるか、それとも「継承を断ち切る」と読めるか。破り取られた頁が恨めしかった。
食事を運ぶとき、透真は端末から顔を上げて言った。
「今夜、また信号が出るかもしれない。聞こえたら教えてもらえますか」
「条件があります」
「何ですか」
「遙の手記を、あなたが見たことにしない。機関には報告しない」
透真は少し考える顔をした。それから頷いた。
「分かりました。ぼく個人の約束として」
機関には、ではなく。ぼく個人の、という言葉の選び方が、汐音には引っかかった。
夜が深まるにつれ、島の風は止まった。燈台の光が旋回し、霧の中に白い弧を描く。
地下からは何も聞こえない。
だが汐音は眠れなかった。ファイルの波形が瞼の裏で揺れ続け、その奥に、まだ名前を持たない声が息をひそめているような気がしてならなかった。