霧が晴れた瞬間、研究都市は光の塊として汐音の目に飛び込んできた。

 いや、正確には晴れたのではない。霧はあいかわらず海面を這っていたが、都市そのものが放つ人工の輝きが霧を押しのけるほど強く、岸壁に近づくにつれて夜の色が変わったのだ。橙と白と青、三種類の光が幾層にも重なり、大気を満たしたまま空へ溶けていく。星の代わりとでも言いたいのか、とふと思った。

 「着いたよ」と透真が言い、小舟のエンジンを絞った。「笑顔はなくていいけど、あまり鋭い目つきもしないでくれ。監視カメラは笑いを認識するほど賢くないが、不審な表情の検出には優れてる」

 汐音は答えの代わりに一度だけまばたきをした。透真はそれを了承と受け取ったらしく、小さく頷いて舫い綱を岸柱に結んだ。

 桟橋を渡り、通関ゲートを抜けるとき、汐音は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。ゲートの両脇に立つ白い支柱の先端で、小さなレンズが無言のままこちらを見ていた。瞳の代わりに据えられた硝子。見られている、という感覚は、燈台の光に照らされるときとは根本的に異なった。燈台の光は海を照らすためにある。しかしここの光は、人を照らすためにある。

 「ここから先は普通の観光客を装う」と透真は口の端だけで囁いた。「二十分ほど歩く。観察したいものがあっても、立ち止まらないでくれ」

 都市の内部は、外から想像したよりもずっと整然としていた。道路は等間隔の白線で分割され、歩行者と車両の通路が厳密に区切られている。建物の外壁はどれも同じ色調の灰白色で、窓の大きさや位置まで規格化されているように見えた。植え込みの樹木は等間隔で剪定されており、葉の一枚さえ乱れていない。

 人々は行き交っていた。夜遅い時刻にもかかわらず、通りには相当数の人影があった。皆が似たような防塵マスクをつけ、似たような速度で歩いている。立ち話をしている者が一人もいない。笑っている者も。

 汐音は透真の半歩後ろを歩きながら、この都市が放つ光の性質を無意識に分析していた。光源は街灯だけではなく、建物の壁面に埋め込まれた無数の発光パネルからも発せられていた。常に均一な照度。影が生まれにくい設計。どこにいても、何かに照らされている。

 違う、と汐音は思った。これは照らすのではない。これは塗りつぶしている。

 透真が角を曲がり、汐音もそれに続いた。狭い路地に入ると、急に光が届かなくなった。しかし路地にも小さなカメラがあり、汐音はその存在をすぐに感知した。レンズが向く方向、取り付けられた角度、カバーする死角の範囲。島で育った習慣が、そういう計算を自然に働かせる。

 「ここだ」と透真が立ち止まり、無骨な鉄扉を三回ノックした。少し間があって、扉が内側から開いた。

 中は古い倉庫を改造した部屋だった。壁に断熱材が貼られ、窓は全て塞がれている。中央に折り畳みのテーブルと椅子が二脚。隅にはコンパクトな電熱器と水の補充タンク。実用以外の何もない空間だったが、外の均一な光がここには届かず、汐音はかすかに安堵した。

 「しばらくここを使う。機関の宿舎は当然使えない。食料は明日手配する」

 透真が荷物を下ろしながら言った。汐音は部屋の四隅を確認してから椅子に座った。

 「窓に灯を点けていた人は」と汐音は言った。

 透真の手が一瞬止まった。「見えたか」

 「燈台と同じリズムだった」

 透真は深く息を吐いてから向かいの椅子に座り、汐音を見た。「接触は明日以降だ。今夜は休め。この都市では、急ぐことが最も危険な行動になる」

 汐音は頷き、そのまま黙った。外の光が遮られているせいで、部屋の中には電熱器のわずかな橙だけが浮いていた。その色がなんとなく、燈台の光に似ていると思った。

 眠れなかった。

 汐音は薄い毛布を体に巻いたまま、壁の断熱材を見つめていた。透真はとっくに寝息を立てている。規則正しい呼吸。旅慣れた人間の眠りだと思った。

 頭の中で、都市の光景が繰り返された。行き交う人々。揃いのマスク。等間隔の歩行速度。笑顔がなかった、と汐音は思った。笑顔どころか、何かを強く欲しがっている表情も、何かに驚いている様子も、なかった。皆が同じ速度で、同じ方向を向いて進んでいた。

 あの人たちは、星を見たことがない。

 その事実が、都市に足を踏み入れてからずっと、汐音の中で静かに澱んでいた。今の十代は、生まれたときから空が茶色い。大気汚染が臨界点を超えた年を境に、肉眼で星を見ることは不可能になった。汐音も例外ではない。彼女が「星」を知っているのは、遙の語る言葉と、地下設備のデータと、セノの信号を通じてだ。

 しかしここの人々は、それさえ持っていない。

 孤島では、星は消えていても海があった。霧があった。風があった。潮の変化が、宇宙の時間を語ってくれた。波打ち際で目を閉じれば、頭上にあるはずの無数の光点を、なんとなく感じることができた。根拠のない感覚だったかもしれないが、それは確かにあった。

 ここには何があるのか、と汐音は思った。人工の均一な光。規格化された建物。立ち止まることを許さない設計。この都市は、人々が「空を見上げる習慣」を持てないように作られている。

 意図的に、とまでは言えなかった。しかし汐音の観察眼は、そこに設計の意図を嗅ぎ取った。見上げなければ、失ったことに気づかない。気づかなければ、取り戻そうとしない。

 静かな憤りが、胸の底から立ち上がった。

 燈台の地下で、セノが初めて信号を発したとき、汐音は怖かった。しかし同時に、胸の奥に何かが点灯するような感覚があった。それを何と呼べばいいかわからなかった。遙は「星語りに呼ばれた」と言ったが、汐音にはもっと単純な言葉の方がしっくりきた。

 繋がりたい、ということだ。

 自分より遙か遠くにあるものへ、声を届けたいということだ。

 ここの人々からは、その欲求が感じられなかった。それが汐音の感じた違和感の正体だった。欲求が消されているのか、最初から持てなかったのか、それとも別の何かで満たされているのかは、まだわからない。ただ、この都市の光はどこか、蓋のように空に向かっていた。

 どこかで、低い音が鳴った。

 汐音は耳をすませた。壁の外から聞こえる。規則的な周波数。五秒置きに一度、短く。機械の駆動音にしては位相が整いすぎている。

 起き上がり、遮音材の隙間に耳を当てた。音がはっきりした。三短、二長、一短。

 汐音は息を呑んだ。

 それは、遙が燈台の操作盤を叩くときの癖と同じリズムだった。

 同じではない、と理性が言った。偶然かもしれない。この都市には無数の機械がある。一致するパターンが生まれても不思議はない。

 しかし汐音の直感は、理性より先に体を動かしていた。毛布を脱ぎ、靴を履き、扉の前に立った。

 透真の寝息は続いている。

 汐音は扉に手をかけ、それから一度立ち止まった。「急ぐことが最も危険」と透真は言った。わかっている。わかっているが、このリズムは、今夜でなければ聞けない気がした。根拠はない。ただ、燈台の光がそうだったように、信号は繰り返されながらも、必ずいつか途絶える。

 汐音はゆっくりと扉を開けた。

 路地に出ると、夜の空気が頬を打った。光の都市の夜は、真の暗闇を知らない。しかし汐音が耳をすませると、音は確かにこちらへ向かって流れていた。

 三短、二長、一短。

 そして今度は、それに続く音があった。

 一長、三短、一長。

 汐音の全身が冷えた。それは返信だった。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

21

研究都市、人工の光の中で

沖野汐里

2026-06-03

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