夜明け前の研究都市は、霧を纏ったまま息を潜めていた。

 廃倉庫の窓から射し込む街灯の光は黄ばんでいて、まるで長い間誰かが磨くのを忘れていたレンズのようだった。汐音は薄いブランケットを肩に引き上げながら、昨夜路地で受け取った返信のことを頭の中で何度も繰り返した。あの信号は確かに遙の癖を知っていた。間の取り方、強弱の置き方、最後に必ず入れる短い三連打。島に残してきた誰かが打ったとは思えない。ならば、あれは誰だったのか。

 透真は夜のうちに一度外へ出て、夜明けとともに戻ってきた。扉を静かに引いて入ってくる彼の表情には、珍しく作り物めいた軽薄さがなかった。

「起きてたのか」と彼は言い、汐音の向かいにしゃがんだ。「眠れなかった?」

「少しだけ」

「俺もだ」透真は両手を膝の上で組んだ。「実は昨夜、連絡を取った人間がいる」

 汐音は黙って続きを待った。

「機関の研究員だ。渡辺環境奈——キョウナって呼んでる。俺が学生のとき、一時期同じ研究室にいた。今は星語りの資料整理を担当してる部署にいる」

「信用できる人?」

 透真はしばらく答えなかった。外で鳥が一声鳴いた。この都市に野鳥がいることを、汐音は少し意外に思った。

「できると思う。あいつはずっと、正式な記録の外側にある資料を集めてきた。クロエが封印を決めた後も、こっそりとな」透真の声は慎重で、それがかえって彼の本気を示していた。「今日、会う」

 待ち合わせ場所は、都市の外縁部にある植物研究棟の裏手だった。大気浄化プロジェクトの試験区画で、フィルタリングされた空気の中で育てられた草木が並んでいる。汐音にとっては初めて見る種類の葉もあり、島では目にしない緑の濃さに一瞬足が止まった。

 渡辺環境奈は、すでにそこにいた。

 三十代の前半に見えた。白衣の上に薄いカーキのコートを羽織り、眼鏡の奥の目は穏やかというよりも静かな、何かを長い間見つめ続けてきた人間の目をしていた。透真の姿を認めると、彼女は小さく頭を下げた。派手な仕草ではなかったが、その礼は本物に見えた。

「久しぶり、透真」

「ひさしぶり、キョウナさん。無事で良かった」

「あなたこそ」彼女の視線が汐音に移った。「蒼井汐音さん。話は透真から聞いています」

 汐音は軽く頭を下げた。環境奈は観察するでも値踏みするでもなく、ただ真っ直ぐに汐音を見ていた。それが汐音には少し楽だった。

「時間がないから、順を追って話します」環境奈は背後を一度だけ確認してから言った。「まず、私の立場を明確にしておきたい。私はクロエ長官に反旗を翻すつもりで動いているわけじゃない。でも、彼女がやっていることが正しいとも思えなくなってきた」

「どのあたりから?」透真が聞いた。

「七年前の資料整理の一件から」環境奈は言葉を選ぶように間を置いた。「三百年前の初期受信記録——星語りの最も古い断片が、正式なアーカイブから削除された。処理の手続き上は破損データとして処理されたことになっている。でも私はその前に、内容の一部をコピーしていた」

 汐音の胸の内で、何かがひやりとした。

「なぜ?」

「直感です」環境奈は少し苦い顔をした。「研究者として最も恥ずかしい答えだと思う。でも、あのとき感じたんです。これは消してはいけない、と」

 透真が静かに言った。「それがクロエへの複雑な感情の始まりか」

「……ええ」環境奈はそこで少し黙った。「クロエさんは、悪い人じゃない。むしろ誰よりも星語りに向き合ってきた人だと今でも思っています。でも彼女は、星語りが再び動き始めることを恐れている。理由はまだわからない。ただ、恐れているのは確かです」

 風が植物棟の脇を抜けた。葉が揺れる音の中で、汐音はセノのことを思った。信号の中から生まれたあの声。自分が人なのか星なのかわからないと言った、断片的な記憶を持つ存在。クロエが封じようとしているものの正体は、ひょっとしたらあの声にも関わっているのかもしれない。

「資料を持ってきてくれたんですか」と汐音は言った。声が少し掠れた。

「はい」環境奈はコートの内側から、薄い端末を取り出した。「これに入れてあります。星語りの正式な解読資料——といっても、機関が公式に認めているものではなく、私が個人で積み上げてきた復元作業の記録です。初期信号の文法的構造、繰り返しパターンの分類、受信時の周波数帯域との対応関係。あなたが感覚的に読み取っているものを、言語として裏打ちできる内容だと思う」

 汐音は両手でそれを受け取った。ひどく軽かった。こんなに軽い物の中に、三百年の声が入っているのかと思うと、少し現実感が薄れた。

「ありがとうございます」

「お礼は後でいい」環境奈は言った。「一つだけ聞かせてください。昨夜、外縁部の第七セクターで信号の反応記録が出ました。短時間でしたが、機関の観測システムには引っかかっている。あれはあなたですか」

 汐音は透真と目を合わせた。透真が小さく頷いた。

「私が路地で信号を受けました。返信も来ました」

 環境奈の表情が、わずかに変わった。驚きというより、長い間待っていた何かが来たときの、静かな動揺のようだった。

「返信が、来た」彼女はそっと繰り返した。「誰から?」

「わかりません。でも信号のパターンが、私の養父のものと同じだった」

 しばらく沈黙があった。環境奈は眼鏡を外し、レンズを拭いた。それが考えるときの癖なのだろう。

「機関の中に、私と同じような考えを持つ研究者が何人かいます。表立って動けてはいないけれど、情報の共有くらいはできる。あなたたちが何かを見つけたとき、それを伝える回路が必要なら、私を通してください」

「キョウナさん」透真が言った。「危険を引き受けてくれてありがとう」

「引き受けてるのはあなたたちの方でしょう」彼女はわずかに苦笑した。「それに、私にも責任の一端はある。七年間、資料を手元に持ちながら動けなかった。今更きれいな話にするつもりはないけど、それでも動かないよりはましだと思いたい」

 環境奈はそこで一度だけ周囲を見回し、踵を返した。白衣の裾が葉に触れて揺れた。

「一つだけ」汐音は彼女の背中に言った。

 環境奈が振り返った。

「クロエという人は、本当は何を守ろうとしているんでしょう」

 環境奈はしばらく汐音を見つめた。その表情には、答えを知っているのか知らないのかさえ判然としない複雑な色があった。

「それを解き明かすのが、たぶんあなたの仕事なんだと思います」彼女は静かに言った。「でも一つ言えるのは——クロエさんは、誰かをとても深く失っている。それだけは確かです」

 それだけを残して、環境奈は植物棟の影に消えた。

 葉擦れの音だけが残った。汐音は端末を胸に押し当てたまま、しばらくそこに立っていた。

「行こう」透真が言った。声が少しだけ柔らかかった。「資料を読む場所に戻ろう。たぶん今夜は忙しくなる」

 汐音は頷いて、歩き始めた。

 手の中の端末はやはり軽かった。でも今は、その軽さが全く違う意味に感じられた。三百年分の声の重さは、重量ではなく、渡されてきた数の多さにあるのかもしれない。遙から汐音へ。環境奈から汐音へ。名前も知らない誰かから、また誰かへ。

 受け取るたびに、声は少しずつ形を変えながら、それでも途切れずに流れ続けている。

 廃倉庫への道を歩きながら、汐音はふと空を見上げた。分厚い雲の層が光を飲み込んでいる。星は見えない。三百年前からずっと、見えない。

 でも、声は届いていた。

 昨夜も、今も。

 そしてその声が、セノの記憶とどこかで繋がっているという予感が、汐音の中でじわりと輪郭を帯びはじめていた。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

22

透真の旧友

沖野汐里

2026-06-04

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第22話 透真の旧友 - 燈台守の子と、声なき星たちの譜 | 福神漬出版