夜明け前の波止場は、呼吸をするように霧を吐いていた。
汐音は桟橋の端に立ち、足元の黒い水面をじっと見つめた。波は穏やかで、桟橋の杭に体を寄せては引いていく。その音が、今朝だけはいつもと違って聞こえた。遠ざかる音だ、と汐音は思った。何かを手放すたびに音が変わることを、彼女はずっと前から知っていた。
背中に担いだリュックは軽い。着替えが二枚と、遙が使っていた古い羅針盤と、地下室で書き写した星語りの断片を綴じたノート。それだけだ。持てる限りのものを持ってきた、という感覚はなかった。持てるものがそれだけしかなかった、というほうが正しかった。
「汐音」
透真の声が霧の中から来た。桟橋の根元に小舟を繋ぎ終えた彼が、ロープを手に歩いてくる。フードを深く被り、いつもの軽い笑みを浮かべてはいたが、その目だけは夜の色をしていた。
「出られる? 風向きは今が一番いい」
汐音は頷いた。言葉より先に体が答える。それが彼女の流儀だった。
小舟は燈台の裏手から出た。遙の燈台が背後で白く霞む。汐音は振り返らなかった。振り返れば何かが決壊するような気がして、ただ前を向いたまま櫂を握った。透真が舵を取り、二人は霧の海峡へと滑り出した。
最初の三十分ほどは島の輪郭がまだ見えていた。燈台の灯が霧を透かして点滅する。三秒点灯、一秒消灯、二秒点灯。汐音が生まれる前から繰り返されてきたリズム。遙がそれを守り、今は誰も守る者のいないまま灯は瞬いている。自動制御に切り替えてきた。それでも灯が続く限り、あの場所が存在したことの証になる、と汐音は思った。
霧が濃くなった。
島が消えた。
不意に、汐音は自分がどこにもいない感覚に囚われた。水と霧だけの世界。前も後ろもなく、上と下の境界すら曖昧だった。水面が鈍く光り、それが空の反射なのか海の発光なのか判然としない。
「怖い?」
透真が静かに訊いた。
「怖くない」と汐音は答えた。それは本当のことだった。怖いのとは少し違う。これは、知らない言語を耳にしたときの感覚に似ている。意味はわからないが、音の構造に何かあると感じる、あの緊張だ。
透真は小さく笑って、何も言わなかった。
一時間ほど経つと、霧の密度が変わり始めた。薄くなるのではなく、色が変わる。白から黄みがかった灰色へ、そして赤褐色の層へ。汐音は初め、夜明けの色だと思った。しかし太陽はどこにもなかった。光源のない、大気そのものが帯びる色だった。
「あれが汚染層」と透真が言った。「島より陸に近いほど濃くなる。研究都市は半地下構造になってて、外気を直接吸わない設計になってる。でも古い住宅地区は今でも簡易マスクで生活してる」
汐音は空を見上げた。赤褐色の天蓋。その奥に何があるのかを人が忘れて、もう何十年も経つ。星を見たことのある老人がまだ生きているが、若い世代はすでに「空は昼は白く夜は黒い」という認識しか持たない。汐音はその世代に属していた。それでも、地下室の星語りの記録を読み続けたせいで、自分の中に見たこともない空のイメージが育っていた。
セノが言っていた言葉が蘇った。
『空が生きていた頃、星は毎夜答えていた。声ではなく、光の揺らぎで』
その声はもう聞こえない。島を離れる前夜、通信装置の前で最後の交信を試みた。応答はなかった。砂のような雑音だけが満ちて、セノの言葉の断片だけが辛うじて浮かんでは消えた。『行け』という音型に似た何かが聞こえた気がした。気のせいかもしれなかった。それでも汐音は、それを餞けとして受け取ることにした。
「透真さん」
汐音は口を開いた。透真が少し驚いた顔をした。汐音から話しかけることは珍しい。
「研究都市に、今も星語りを信じてる人はいる?」
透真はしばらく舵を握ったまま黙っていた。霧が彼の横顔を包む。
「いる」とようやく彼は言った。「ごく少数だけど。クロエに逆らえなくて表に出てこられない人間が、たぶん内部に何人かいる。でも確証はない。俺の勘と、いくつかの傍証だけだ」
「傍証って」
「異動の不自然な速さ。研究記録の欠番。特定のキーワードで検索すると結果が返ってこない端末がある」汐音は「もし契約の真実を証明できたら、その人たちは動く?」と訊いた。
「動くか、消されるか、だ」
透真の声は穏やかだったが、その言葉の重さは隠しようがなかった。汐音は頷いて、また前を向いた。波が少し高くなった。小舟が揺れる。汐音は櫂を持ち直した。
それからしばらく、二人は黙って海を渡った。
霧が急に薄れたのは、午前の半ばを過ぎた頃だった。
汐音は息を呑んだ。
海の向こうに、光があった。
都市だった。
遠目にもわかる巨大な構造物が水平線の上に積み重なっていた。半透明の外壁が大気汚染の赤褐色の霧の中で鈍く輝き、その下には幾筋もの桟橋が海に延びていた。船の往来があり、巨大な荷台を積んだ台船が霧を掻き分けて進んでいる。無数の灯が瞬いていた。白い灯、青い灯、橙の灯。それらが重なり合って作る光の塊は、汐音がそれまで見た最も複雑なパターンだった。
燈台の灯は、一つだった。
これは、無数だった。
「初めて見た感想は?」と透真が小さく訊いた。
汐音は答えようとして、言葉を見つけられなかった。代わりに、胸の中で何かが静かに揺れた。広い、と思った。怖い、とも思った。でも一番強く思ったのは、三百年前の人もこの海を渡ったのだろうか、ということだった。星語りの最初の受信者は、どこからどこへ向かって歩いたのか。
「うるさい」と汐音は言った。
透真が首を傾げた。
「光が、うるさい」
彼は一瞬黙り、それから静かに笑った。「そうだな」と彼は言った。「俺も最初に戻ってきたときはそう思った」
戻ってきたとき、という言葉が汐音の耳に引っかかった。透真は以前ここにいた。そして去った。今また戻ろうとしている。その間に何があったのかを、汐音はまだ半分しか知らない。
都市が近づくにつれ、大気の色はさらに深くなった。喉の奥にわずかな刺激を感じた汐音は、リュックからマスクを取り出して装着した。透真はすでに付けていた。マスク越しに見る都市の光は、滲んでいっそう複雑なパターンを作る。
汐音はそのパターンを、無意識に読もうとしている自分に気づいた。
燈台の灯を読むように。
セノの信号を読むように。
光はすべて語りかけている、と遙が言った。聞く者がいなくなっても、光は語り続ける。三百年間、誰も聞かなかった声が今も続いているとしたら。
「着いたら、まず俺の知人に会う」と透真が言った。「表向きは研究補助員だけど、実質的にはクロエの動向を記録してる人間だ。今の状況を教えてもらって、それから動く」
「クロエはもう、私たちが来ることを知ってる?」
「たぶん」透真は迷いなく言った。「知らないはずがない。問題はそれがどういう意味を持つかだ」
汐音はまた前を向いた。都市の桟橋が、もう肉眼ではっきり見えた。荷を運ぶ人の影が動いている。警備員らしき制服の人影もある。
不安がないとは言えない。でも恐怖は静かな場所に落ち着いていた。これは恐怖より大きな何かと向き合っているときの感覚だ、と汐音は思った。遙が病床で呟いていた言葉が蘇る。
『お前が継ぐのは、俺の役目じゃない。もっと古いものだ』
その古いものの正体が、今この都市の中に眠っている。
小舟が桟橋の陰に入った。波の音が変わった。狭い水路を進む、反響を含んだ音だ。汐音は目を細めた。
都市は、光のすべての音が濁って重なり合っている。その中に、ひとつだけ、微かに整ったリズムを持つ灯が点滅しているのを汐音は見た。
高い建物の、窓の一つ。
三秒点灯、一秒消灯、二秒点灯。
燈台と、同じリズムだった。