夜明け前の燈市は、昼間とは別の顔を持っていた。
露天の屋台が軒を連ねる表通りから三つ路地を折れると、通りを流れる人の質が変わる。あちらこちらに灯篭型端末の青白い光が漂うなか、何かを売り、何かを買い、何かを隠している者たちの気配が、煙のように立ち込めていた。夜依はコートの襟を立て、先を歩く小柄な男の背を追った。
ブローカーは「梟」と名乗っていた。四十がらみの、どこにでもいそうな顔をした男で、最初に千重が持ち込んだ情報から辿り着いた人物だった。梟は振り返らないまま、低い声で言った。
「紹介料はもう受け取った。あとのことは俺は知らない。会えたとしても、何も聞かなかったことにする」
「わかってる」
夜依の後ろを、壱がついてくる。壱は今夜、ひとことも喋っていなかった。ただ夜依の斜め後ろに影のように寄り添い、その手には携帯型の記憶読取端末が握られている。念のためだ、と夜依は言い、壱は無言でうなずいた。千重は事務所に残してきた。危険だと言ったわけではない。ただ夜依が「今夜はいい」と言っただけで、千重は珍しく素直に従った。何かを察したのかもしれなかった。
梟が立ち止まったのは、燈市の端、廃倉庫が立ち並ぶ一角だった。川に面した古い建物で、壁面にはかつての企業ロゴが剥げかけている。夜依には見覚えがない場所だったが、鼻の奥で微かに何かを嗅いだ気がした。機械油と、古い紙と、何か甘いもの。それが何であるかは、わからなかった。
「ここだ」
梟はそれだけ言って踵を返した。振り返ることすらしなかった。夜依は倉庫の扉を見つめた。鉄製の引き戸に、手書きで数字が書かれている。意味のない番号のように見えたが、夜依は直感的に、それが何らかの暗号ではないと知った。ただの汚れだ。ただの傷だ。しかしそこに立つことには、意味がある。
「行きますか」
壱がはじめて口を開いた。
「行く」
夜依は扉を引いた。
内部は広かった。天井が高く、かつては何かを保管していたらしい棚の骨格が、廃墟のように並んでいた。中央に、一脚の椅子。その椅子に、人が座っていた。
老人だった。あるいは老人に見えた。顔の上半分を、白い仮面が覆っていた。能の翁面に似た造形で、表情が読めない。しかし下半分の口元は露わで、そこに深い皺が刻まれていた。身にまとっているのは黒に近い灰色のコートで、まるでこの空間に溶け込もうとしているかのようだった。
「カイロ、と呼べばいいか」
夜依は声を落ち着けて言った。
仮面の口元が、動いた。
「呼び方はなんでも構わない」
声は低く、しかし澄んでいた。老人のものとも若者のものとも判別がつかなかった。加工しているのか、あるいは生来のものなのか。夜依は相手の膝の上に置かれた両手を見た。手袋をはめている。右の手袋だけが、わずかに古びていた。
「瀬戸夜依だ」
言った瞬間、仮面の男が動いた。動いた、というより、止まった。それまでの静けさとは異なる、凝固するような静止だった。そしてそこから数秒の後、口元に笑みが浮かんだ。夜依は今まで見たことのない種類の笑い方だと思った。懐かしむような、憐れむような、しかしそのどちらでもないような。
「ああ」
カイロは言った。
「知っている。お前の記憶を縫ったのは、私だ」
夜依の足が、一歩前に出た。
止まった。
胸の奥で何かが軋んだ。長い時間をかけて渇望してきたものが、ようやく目の前に現れたとき、人はどうなるのか。夜依は今まさにそれを体験していた。怒りよりも先に、奇妙な静けさが訪れた。感情が追いつかないのではない。感情が、正確に整列しようとしているのだ。
「誰に頼まれた」
声は震えていなかった。それだけが、夜依の誇りだった。
カイロは答えなかった。椅子の上で、わずかに身じろぎした。
「依頼主の名前を言え」
「それはできない」
仮面の口元が、静かに言った。
「できないのか、言わないのか」
「どちらでもない。言わない方がいい、と判断している」
夜依は一歩踏み出した。カイロとの距離が縮まる。壱が背後で何かを操作する気配がした。端末を起動したのだろう。しかしカイロは動じない。
「それはお前のためだ、瀬戸夜依」
カイロは続けた。
「依頼主の名を知ったとき、お前には二つの道がある。潰されるか、それとも壊れるか。どちらにせよ、お前は死ぬ。生きていても、同じことだ」
「それでも聞く」
「知っている。だから言わない」
沈黙が倉庫に満ちた。川の流れる音が、遠くに聞こえた。夜依は相手の仮面を見つめた。翁の微笑みは変わらない。しかしその目の部分、仮面に穿たれた細い孔の奥に、何かがある。光ではない。それよりも重いもの。
「お前は私を憎んでいるか」
カイロが聞いた。
「今は」夜依は一拍置いた。「判断を保留している」
「賢い」
「お世辞はいい。一つだけ教えろ。私の記憶を縫ったとき、お前はそれを正しいと思ったか」
長い間があった。仮面の向こうで、何かが動いているような気がした。
「思わなかった」
カイロは言った。
「それが答えか」
「それ以上の答えは持っていない」
夜依は目を細めた。相手の言葉の意味を、解析しようとした。嘘には聞こえなかった。しかし本当のことを言う人間が必ずしも誠実であるとは限らない。カイロが仕事人であることは変わらない。依頼を受け、夜依の記憶を書き換えた事実は変わらない。
「もう一つだけ」
「なんだ」
「千重を知っているか」
今度の沈黙は、先ほどとは質が違った。
カイロの口元から、笑みが消えた。それだけだった。消えて、また戻ってきた。しかし戻ってきた笑みは、先ほどとは形が違った。何かを抑えているような、あるいは隠しているような、微妙な歪みを含んでいた。
「知らない名前だ」
嘘だ、と夜依は思った。断言できる根拠はない。しかしこれまで数えきれないほど嘘をつく人間と向き合ってきた夜依には、何かがわかった。カイロは今、はじめて嘘をついた。
それ以上は追わなかった。追っても、今夜はここまでだと理解した。相手はプロだ。そしてなぜか、夜依のことを知っている。それは記憶を縫ったからだけではない、もっと深いところで知っている、という気がした。
カイロが立ち上がった。椅子を離れ、倉庫の奥、暗がりへと向かいながら、一度だけ立ち止まった。
「手を出せ」
夜依は反射的に従っていた。
カイロの古びた右の手袋が、夜依の掌の上に何かを置いた。
小さなものだった。陶器か、それに近い素材でできているようだった。丸みを帯びた破片で、縁が欠けている。光を当てると、かすかに文様が浮かぶ。渦を巻くような、流れるような模様。灯篭に似た意匠だと夜依は思った。しかし見たことのない、古い様式のものだ。
「何だ、これは」
「持っていろ」
カイロは振り返らなかった。
「お前がいつか、それを必要とする日が来る。私の代わりに、それが証言するだろう」
「証言?」
「法廷の言葉で言えば、そうなる」
暗がりの中に、仮面の老人は消えた。足音もなかった。まるで最初からそこに存在していなかったかのように、ただ椅子だけが残された。
夜依は掌の上の破片を見た。
壱が横に来て、同じものを見た。
「胸が、重い」
壱が言った。感情を言語化することに不慣れな彼が、それを言葉にした。夜依は壱を見なかった。ただ破片を握り締め、その古い陶器の欠片が持つ意味を、まだ理解できないまま、受け取った。
川の方から風が来た。燈市の灯篭がいくつか、風に揺れて流れていった。その光が倉庫の高窓から差し込み、夜依の手の中の破片を、一瞬だけ照らした。
渦巻く文様が、光の中で揺れた。
まるで、何かを覚えているかのように。