灯篭のかけらは、掌に乗せると思いのほか軽かった。
陶器の白さは黄ばみをおびて古く、縁はなめらかに欠けている。けれど表面に刻まれた細い線刻だけは、まるで昨日彫られたように鮮明だった。見れば見るほど、何かの文字のようでもあり、地図の断片のようでもあった。夜依は廃倉庫からの帰り道、一度もその破片を鞄にしまわなかった。ずっと手のなかに持ち続け、夜の灯京の光のなかで繰り返し眺めた。
川沿いの大通りを抜けると、無数の灯篭型データ端末が低く漂っていた。穏やかな橙色に点滅しながら、まるで生き物のように川面に向かってゆっくり降りていく。観光用のデモンストレーションだと夜依は知っていた。本当の万灯流しは年に一度しか行われない。それ以外の夜に川を照らす灯りは、すべて複製だ。
しかし複製でも、美しいものは美しい。
夜依はその矛盾について、今夜は考えないことにした。
事務所の裏手、糸村百合江が住む古い棟の前に立ったとき、時刻はすでに夜の十一時をまわっていた。どれだけ遅くても百合江は起きている。それは夜依が事務所に転がり込んだ最初の夜から変わっていない習慣だった。呼び鈴を押すと、すぐに錠の外れる音がした。
「おや、夜依さん。壱くんは」
「今日は先に帰した」
百合江は薄い夜着の上に羽織を一枚かけ、細い目でじっと夜依を見た。長年の習慣で磨かれた観察眼は、夜依が何か抱えていることをすぐに察したようだった。
「お茶くらい飲んでいきなさい」
狭い居間に通されると、いつものように古い木の卓袱台が真ん中に据えられ、湯飲みが二つ出てきた。百合江は何も問わず、急須をゆっくりと傾けた。茶の香りが立ち上る。夜依はその向かいに正座して、しばらくそのまま黙っていた。
いつ切り出せばいいかわからなかった。
カイロと会ったこと。夜依の記憶を縫ったのは自分だと認めたこと。依頼主は言えないと、それだけ繰り返したこと。そして最後に——このかけらを渡されたこと。
「百合江さん」
夜依は静かに手を開いた。
卓袱台の上に、陶器のかけらを置いた。
湯飲みを持ち上げかけた百合江の手が、止まった。
老女の目が、かけらに向けられた。
何も変わらなかった。一瞬だけ、そう思った。百合江はいつも泰然としていて、灯京の裁判所が揺れた夜も、事務所が監視下に置かれた朝も、その皺だらけの顔に波ひとつ立てなかった人だった。
だから夜依は、次の瞬間を見て息を呑んだ。
百合江の手が震えた。
湯飲みが卓袱台に当たり、澄んだ音を立てた。老女はそれを置き直すことも忘れ、かけらに目を落としたまま、唇だけをわずかに開いた。
「……どこで」
声が、違った。これまで夜依が聞いたことのない、何かを噛み殺したような声だった。
「記憶改竄師から。カイロという人物に会った」
百合江は返事をしなかった。かけらに手を伸ばし、夜依と同じように掌に乗せた。指先でゆっくりと線刻をなぞる。その動作に、かつて何度もそうしていたと思わせるような、奇妙な親密さがあった。
「百合江さん、これが何かご存知ですか」
老女はしばらく答えなかった。居間の隅で古い柱時計が時を刻んでいる。川の方角から、データ端末の微かな音が聞こえた。
「……灯京最初の灯篭」
百合江は静かに言った。
「この都市に最初に灯りを流した、その灯篭の一部です」
夜依は背筋が冷えるのを感じた。
「最初の灯篭」
「ええ」百合江はかけらを見つめたまま続けた。「灯京が建設された夜、創設者は川に一つだけ灯篭を流した。それが万灯流しの始まりとされている。祝祭の灯り、希望の象徴、と——そう語り継がれてきた」
語り継がれてきた、という言葉の温度が、夜依には引っかかった。
「そう語り継がれてきた、というのは」
「事実とは少し、違うということです」
百合江の目に、光が揺れた。
夜依は初めてそれを見た。あの百合江が——法衣を脱いでからも法廷の顔で生きてきたあの老女が——泣いている。
涙は音もなく流れた。百合江は手の甲で拭おうともせず、ただかけらを両手で持って、静かに泣いていた。
「あの灯篭はね、夜依さん」百合江は掠れた声で言った。「希望を流したのではない。真実を封じるために流したのです」
夜依は息をするのを忘れた。
「創設者は、この都市を作る際に——何かを隠した」
「何を」
「それを話すには……」百合江は一度目を閉じた。「話すには、まだあなたに足りないものがある。証拠が。それを持たずに聞いても、信じられないでしょう。信じたとしても、使えない」
「百合江さん」夜依は前に身を乗り出した。「今夜話してください。私にはもうその権利がある。カイロは私の記憶を縫った人物です。あなたはそれを知っていた」
老女がはっと顔を上げた。
「知っていたでしょう」夜依は静かに、しかし揺れない声で続けた。「だから事務所の大家になった。だから千重のことを黙って見ていた。だから私に少しずつ見せてきた。全部繋がっている。違いますか」
百合江は長い沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。
「……賢い子だ」
「答えを聞かせてください」
「ええ」百合江は頷いた。「話します。ようやく——話せる時が来た。創設者の名前は、現在の歴史書には記されていない。けれど私は知っている。その人物が何をして、何を川に沈めたか。市民の記憶がなぜ全員——」
そこで老女の声が途切れた。
夜依は気づいた。百合江の顔色が、急速に変わっていた。白い、というより、灰色だった。掌のかけらがわずかに傾き、卓袱台の縁に当たりそうになる。
「百合江さん」
「少し……」老女は手を胸に当てた。「少し、横にならせて」
「救急を——」
「いりません」百合江は首を振った。「以前からある持病です。놀라지마세요……놀라지 마세요、驚かないで。死にはしない」
夜依は立ち上がり、百合江の細い肩を支えた。これほど近くで触れると、老いた体がどれほど軽いかがわかる。骨と皮ばかりのような、けれど内側に何か固いものを宿した体だった。
奥の寝室に連れて行き、布団に横たえると、百合江は静かに目を閉じた。苦しそうな呼吸が少しずつ落ち着いていく。夜依は枕元に座り、その顔を見ていた。
何十年もの時間が、この皺のなかに折り畳まれている。
灯京が生まれた夜を、この人は知っている。
創設者が川に流したものを、この人だけが覚えている。
「……夜依さん」
うとろになりながらも、百合江は口を開いた。
「そのかけらを、大事に持っていなさい。それはただの陶器じゃない。あの灯篭には——記憶が、焼き込まれている」
夜依は卓袱台に置いてきたかけらのことを思った。線刻の細さ、指に残る冷たい感触。
「記憶が」
「ええ……証拠です。誰かが、隠しておいた」
それだけ言うと、老女は静かに寝息を立て始めた。
夜依は立ち上がれなかった。しばらく膝を抱えたまま、枕元に座り続けた。川の方角から、低い音が聞こえてくる。今夜も複製の灯篭が、偽物の万灯流しを演じている。
記憶が焼き込まれた灯篭。
真実を封じるために流された最初の灯り。
そして市民の記憶がなぜ全員——と、百合江は言いかけた。
続きは、まだ聞けていない。
夜依は居間に戻り、卓袱台のかけらをそっと拾い上げた。線刻をなぞると、指先にわずかな熱を感じた気がした。気のせいかもしれない。あるいは、気のせいではないかもしれない。
窓の外に、橙色の光が一つ、川へ向かって降りていった。