川は、負けた夜も流れている。
それが夜依には、どうしようもなく腹立たしかった。
法廷を出たのは夕刻だった。蒼川礼司の横顔が傍聴席にあったこと、あの男が薄い笑みを浮かべながら立ち上がったこと、それだけが網膜に焼きついて離れない。判決文の文言はもう思い出せない。敗けたという事実だけが、靴底から這い上がるように全身に満ちていた。
事務所には戻らなかった。壱にも、千重にも、糸村百合江にも顔を見せたくなかった。
気づけば、環状水路の縁にある石段に腰を下ろしていた。灯京の水路は夜になると、両岸に並ぶ灯篭型データ端末の光が水面に溶け込み、まるで記憶そのものが川になって流れているように見える。橙と金と、ときに青白い光。誰かの裁判記録か、誰かの思い出の断片か。光はどれも美しく、そしてどれも本物かどうか分からなかった。
夜依は膝を抱えなかった。そういう仕草が嫌いだった。背筋を伸ばしたまま、ただ川を見た。
「縫い目」——記憶改竄の痕跡を示す特異なデータパターン——を証拠として提出した瞬間、法廷の空気が変わったことを夜依は覚えている。裁判長の目が細くなり、傍聴席がざわめいた。あの一瞬、勝てると思った。いや、正確に言えば、真実が届くと思った。
しかし蒼川は、その三日前に滑り込ませた判例を使った。改竄痕跡データは「技術的信頼性が未確立」として証拠能力を否定する判例。誰も気づかなかった。夜依でさえ、その判例が自分の手を縛るためだけに設計されていたと知ったのは、判決が読み上げられたあとだった。
先を読まれていた。
それだけのことだった。それだけのことが、今夜は喉に骨のように刺さっている。
足音が石段を降りてきた。振り返らなくても分かった。革靴ではなく、擦り切れたスニーカーの音。
壱が、無言で隣に座った。
距離は、拳一つ分ほどだった。近くもなく、遠くもない。夜依はそちらを見なかった。壱も川を見ていた。二人はしばらく、言葉なしにそこにいた。
水面を橙の光が横切った。どこかの法廷の記録映像だろうか、あるいはもっと個人的な何かだろうか。光は水に揺れて、かたちを崩しながら下流へ消えた。
「どうして来たの」
夜依が先に口を開いた。責めているわけではなかった。ただ聞きたかった。
「分かりません」と壱は言った。「あなたがいなかったので、ここに来ました。それだけです」
「追いかけてきたということ」
「そうなのかもしれません。自分でも、そう言葉にするのが正しいのか判断できない」
夜依は少し、口の端を動かした。笑ったわけではない。ただ、壱の答えがひどく正直だと思った。
また沈黙があった。今度は、最初の沈黙よりも柔らかかった。
「壱」
「はい」
「私は今日、負けた」
「知っています」
「負けたことより」夜依はそこで一瞬止まった。川の光が揺れた。「先を読まれていたことが、怖い」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。「怖い」という音が、自分の口から出たことが信じられなかった。三十二年生きてきて、この言葉を他人に向かって発したことが果たして何度あっただろう。冤罪を負わされた夜にも、弁護士資格を剥奪されかけた朝にも、夜依はこの言葉を飲み込んで生きてきた。
風が水面を撫でた。光がまた揺れた。
壱は、すぐには答えなかった。
夜依はじっと川を見続けた。恥ずかしいとは思わなかった。なぜ今夜この言葉が出たのか、自分でも分からなかった。ただ、壱が隣にいたから出た、とだけ分かった。
「瀬戸さん」
壱がゆっくりと言った。声が、いつもより少しだけ低かった。
「あなたが怖いと言うと、私の胸が痛くなります」
夜依は、そちらを向いた。
壱は川を見ていた。横顔は相変わらず静かで、感情の起伏というものをどこかに置き忘れてきたような顔をしていた。しかしその口元が、かすかに動いていた。何かを言い継ごうとして、言葉を探しているように見えた。
「感情だと思います」と壱は言った。「他人の記憶に触れすぎて、自分の感情というものが何なのか、ずっとよく分からなかった。でも今、胸のここが」壱は左胸に手を当てた。「痛い。これは、感情なのだと思います。悲しいのか、苦しいのか、正確な名前は分からない。でも確かに、ある」
夜依は壱の横顔を見続けた。
壱の記憶読取技術は、長年の使いすぎで自分の感情系統に干渉してしまったのだと、夜依は聞いていた。他人の感情の波が流れ込みすぎて、自分のものの輪郭が溶けた。それが壱という人間の根っこにある傷だった。だから壱の喜怒哀楽はいつも薄く、まるで曇りガラスの向こうにあるようだった。
それが今夜、痛いと言った。
「私のために?」
「あなたが怖いと言ったから、です」
夜依は、川に視線を戻した。何か言おうとして、言葉が出なかった。普段の夜依ならそれを恥とした。しかし今夜は、言葉が出ないことが自然だった。
水面を光が流れた。誰かの記憶。誰かの嘘。誰かの真実。灯京という都市は、この川を流れるものすべてが本物だと言い張り、そのほとんどが疑わしかった。
しかし今この石段にある二人の間の何かは、疑いようがなかった。夜依はそう感じた。感傷かもしれない。負けた夜の錯覚かもしれない。それでも、確かにそこにあった。
どのくらい時間が経っただろう。川の光が橙から青に変わる時間帯になった頃、背後の石段で微かな音がした。
二人は振り返らなかった。
しかし夜依には分かった。足音の軽さと、息の詰め方で。千重だ、と思った。あの娘は足音を消すのが下手で、しかし気配を消すつもり自体がないから、いつも「いる」のが分かる。
千重は、石段の上の方で止まっていた。降りてこなかった。二人の邪魔をしたくないのか、あるいは自分がそこにいることを見せたくないのか。
やがて、かすかな音がした。
鼻を啜る音だった。
夜依は川を向いたまま、目を細めた。壱も川を向いたままだった。二人は何も言わなかった。千重がそこで泣いていることを、知らないふりをした。
千重が何を見て泣いているのかは、言葉にしなくても分かるような気がした。勝てなかった夜依を見て泣いているのか、あるいは、二人がそこに並んでいることに泣いているのか。千重という少女は記憶を持たない代わりに、目の前の感情には異様に敏い。
川が流れた。光が揺れた。啜り泣きが、風に溶けた。
夜依は静かに息を吸った。
怖い、と言った夜だった。負けた夜だった。しかしこの石段には、三人がいた。
それだけで何かが変わるわけではなかった。蒼川礼司は明日も司法の頂点に立ち、灯京の水路には誰かの偽造された記憶が流れ続ける。「記憶そのものを法廷に立たせる」と夜依が誓った言葉は、まだ誓いのままでしかない。
しかし。
(次に負けるとしても、一人で負けるのとは違う)
夜依はその考えを、言葉にしなかった。ただ胸の中に置いた。
壱が、静かに言った。
「瀬戸さん。千重さんが、記憶を取り戻す前に」
「うん」
「糸村さんが、明日話したいことがあると言っていました。灯京が作られた夜の話だと」
川の光が、一瞬強くなった気がした。風のせいかもしれない。データの揺らぎかもしれない。しかし夜依は、その光を目で追った。
灯京が作られた夜。
その言葉が、川の底から響くように胸に落ちた。
夜依は立ち上がった。膝の砂を払い、川を最後に一度見た。流れていく光を見た。
「行きましょう」
石段を上がりながら、千重の傍を通った。千重は目が赤かった。しかし夜依は何も言わなかった。ただ千重の頭に、一瞬だけ手を置いて、歩き続けた。
千重が、小さく息を呑む音がした。
三人は、夜の灯京を歩いた。