翌朝、澄乃は帳場に出る前に、裏口から哲三へ文を送った。
内容は簡潔だった。糸が来たこと、その目が自分の素性を見透かすような光を帯びていたこと、そして展示会の準備が佳境に入るこの時期に、悠長に構えてはいられないという焦りのこと。墨の走りがいつもより速くなったのを、澄乃は自分でも気づいていた。
返事は、その日の昼過ぎに届いた。
「よいものが見つかりました。今宵、例の場所で」
哲三らしい、要を得た短さだった。
——
夜の西陣は、昼間の機音がぴたりと止んで、別の顔を見せる。
澄乃は提灯ひとつを手に、柊屋の離れ蔵の裏手を抜けた。桜はすでに葉桜に変わりつつあり、青い葉が夜風にさらさらと鳴った。石畳の継ぎ目から、昼間の雨が名残の湿りをのぼらせている。春の夜の匂いは、どこか甘く、どこか腐臭に近い。
哲三はすでに来ていた。
入口の段差に腰かけて、膝の上に分厚い帖を広げている。提灯の光が横から当たって、彼の眼鏡の縁を白く光らせていた。
「遅かったですね」と彼は顔も上げずに言った。
「御免なさい。夕餉の片付けが長くなって」
「いえ、それより見てください、これを」
哲三が帖を差し出した。澄乃は提灯をかかげて、書き込まれた文字に目を落とした。
彼の筆跡と、もう一種の、古びた崩し字とが混在している。古い文字のほうは、明らかに写し取ったものだ。
「どこから?」
「先月、大学の先生のもとで整理を手伝った古文書の束の中からです。幕末の京都に関わる文書がまとめて寄贈されたんですが、その一箱が丸ごと手つかずで残っていました。昨日、やっと開けたんです」
哲三の声に抑えた昂揚があった。
澄乃は文字を追った。崩した仮名の中に、一行だけ、鮮明に読める箇所があった。
——春泥に沈みても、誓いの花は咲く
提灯の炎が、風もないのに揺れた気がした。
「……これ」
澄乃の声が出なくなった。
「知っていますか?」哲三が初めて顔を上げ、眼鏡越しに澄乃を見た。「初めて読んだとき、澄乃さんの顔が浮かんだんです。根拠はないんですが、あなたが知っているような気がして」
「知っています」と澄乃はようやく言った。「この出だし、藤原の家に伝わる歌です。幼い頃から何度も聞かされました。母から、そのまた母から。先祖代々の言葉だと」
「やはり」
「でも——」澄乃は帖を返しながら続けた。「うちに伝わる歌は、この一節だけなんです。後が続かない。ずっと、これだけが伝わっていて、全体の歌がどんなものなのか、誰も知らなかった」
哲三は膝の上で帖を閉じた。それから、慎重に言葉を選ぶように、少しのあいだ黙った。
「古文書には、この行の後が続いているはずの余白があります。ただ、そこだけ虫食いで読めない。意図的に削られたのか、単に傷んだだけなのか」
「後の半分が、どこかにあると?」
「あると思います。いや——」哲三は一度言い直した。「あると確信しています」
澄乃は石畳に目を落とした。足の下に、地下廻廊がある。百年前に掘られ、今は誰も通らない、あの暗い道が。
「廻廊に」と澄乃は静かに言った。問いではなく、確かめるような言い方だった。
「そう思います」哲三は帖をかかえ直した。「古文書の束には、廻廊に関わる走り書きが混じっていました。ほとんどが人名と日付の羅列で、暗号めいていて解読しきれていないんですが、その中に『石に刻まれた言葉』という記述が一度だけ出てきました。文脈からすると、地下の石壁を指していると思われます」
「石に、刻まれた」
澄乃は声に出してみた。言葉が舌の上で重くなった。
百年前の人間が、なぜ石に歌を刻んだのか。紙でも板でもなく、石に——それは消えないようにするためだ。誰かに渡したのではなく、その場所に留めた。誰かが、いつか、探しに来ることを信じて。
「朱乃が刻んだと思いますか」と澄乃は問うた。
「それを言うのは難しい」哲三は慎重だった。「ただ、その古文書が、藤原家に縁のある公家の屋敷の蔵から流れ出た文書である可能性が高い。そして、廻廊の出口の一つが藤原家の敷地に通じていたという伝承は、以前にも話したとおりです」
「ええ」
「すべてが繋がっているとすれば、歌を刻んだのは、最後に廻廊を使った人物だということになります」
夜風が吹いて、葉桜がざわめいた。提灯の炎が今度こそ大きく揺れ、二人の影が石畳の上で波を打った。
澄乃の脳裏に、夢の中の朱乃の顔が蘇った。白く整った顔立ち。自分に似ていると、会うたびに思う。唇が言葉を形作るのに、声が届かない夢を何度も見た。
あの唇は、この歌の続きを言おうとしていたのだろうか。
「廻廊に入らなければなりません」と澄乃は言った。
「そうなります」
「入口は、蔵の床下から」
「以前確かめたときは、そうでした。今も塞がれていないはずです」
澄乃は蔵の扉を見上げた。昼間と違い、夜の蔵は黒々として、奥行きが見えない。柊屋の蔵だ。つまり、これは一郎の許しなしに踏み込んではならない場所でもある。
そのことを考えると、胸のどこかが複雑にねじれた。
「一郎さんには」と澄乃は言いかけた。
「言えますか?」
言えるかどうか、澄乃にはわからなかった。何を言う。自分が藤原の末裔だと打ち明けるか。先祖の亡霊に追われているとでも言うか。あの合理的な目が、そんな話をどう受け取るか——
「まだ言えません」と澄乃は答えた。「でも、無断でというのも」
「では一度、夜明け前の時間を使いましょう。誰も起きていない時間帯ならば、蔵の錠がどうなっているか、まず確かめるだけでも」
哲三の声は、学者の卵らしく、あくまでも段取りに忠実だった。それがかえって澄乃には頼もしかった。感情で動くのでなく、手順を踏んで近づくことを、この人はよく知っている。
「わかりました」と澄乃は言った。「でも今夜はいったん引きます。明後日、展示会の仕込みが一段落したら、もう一度ここで」
「了解しました」哲三は立ち上がり、帖をかかえた。「ところで、澄乃さん」
「何ですか?」
「その歌の出だし——春泥に沈みても、誓いの花は咲く——これを聞いて、何か感じることはありますか。言葉の意味以外で」
澄乃は少し考えた。
春泥とは、春に解けた土が水を含んでぬかるみになることだ。何かに足を取られ、沈む。それでも花は咲く、と歌は言う。
「沈んでも、と言うけれど、泥そのものを恨んでいない気がします」と澄乃はゆっくり言った。「泥に沈むことも含めて、誓いを果たすと言っているような」
「そうですね」哲三は眼鏡の奥で目を細めた。「呪いの歌ではなく、覚悟の歌です。歌った人間は、おそらく、泥の中に自分が入ることを知っていた」
その言葉が、夜の石畳の上にしずかに落ちた。
二人はそれ以上は話さず、それぞれに帰路についた。澄乃は柊屋の勝手口から中へ戻りながら、歌の言葉を心の中でもう一度繰り返した。
——春泥に沈みても、誓いの花は咲く
この後に、何が続くのか。
百年前に石へと刻まれた言葉が、暗い地下でひたすら読まれる日を待ち続けている。その確信が、澄乃の腹の底に重く灯った。
廊下の角を曲がったとき、向こうから人の気配がして、澄乃は足を止めた。
一郎だった。
着流しのまま、手に蝋燭を持って、蔵のほうへ向かおうとしていた。二人の視線がぶつかった。一郎の目が、一瞬だけ鋭く光った。
「こんな刻に、どこへ」
低い声が、廊下に落ちた。