蔵の前に、ひとつの影があった。
澄乃は思わず足を止めた。
石畳を踏む自分の草履の音が、夜気に吸われて消えていく。廊下の角を曲がったところで、見てはならないものを見てしまったような気がした。いや、見てはならないものなど、この世にあるはずがない——そう思い直しながら、澄乃はひそりと柱の陰に身を寄せた。
月は中天にかかっていた。明治の世になってから瓦斯灯が街を照らすようになったというのに、柊屋の奥庭はいまも行灯の明かりひとつ灯されていない。蔵の白壁が月光を受けて青白く浮かび上がり、その前に立つ人影もまた、この世のものとは思えぬほど静かだった。
柊一郎だった。
洋装ではなく、薄い紬の着流し姿で、蔵の扉に向かって佇んでいる。半開きになった扉の向こうに、あの花嫁人形が置かれているのだろう。澄乃には見えない。ただ一郎の横顔だけが、月明かりの中にくっきりと刻まれていた。
彼は何も持っていなかった。
榊も線香も、供え物のひとつもない。ただ立っているだけだった。それなのになぜか、澄乃には彼が何かに祈っているように見えた。あるいは、謝っているのかもしれない。あるいは——話しかけているのかもしれない。
「今年も来たよ」
低い声が夜に落ちた。
澄乃は息を詰めた。柱に指先が食い込む。一郎の声は、澄乃が知っている一郎のそれとは違った。仕事場での明晰な命令口調でも、自分に向ける時の冷ややかな距離感でもない。まるで子供が母親に話しかけるような、あるいは若者が古い友人に語りかけるような、そういう柔らかさがあった。
「また一年が経った」
続く言葉も、静かだった。
「何も変わらない。おれは何も変えられないまま、また同じ夜に立っている」
独り言ではなかった。確かに誰かに向けて言っている。蔵の中の、あの人形に向けて。白い打掛を纏い、ガラス玉の瞳で虚空を見つめるあの人形に、一郎は語りかけているのだった。
お春が言っていた言葉を、澄乃は唐突に思い出した。
——旦那さまの蔵参りは、月命日だよ。
あれは第十の月の頃、お春が湯呑みを磨きながら何気なく呟いた言葉だった。その時は深く考えなかった。だがいま、この光景を目の当たりにして、澄乃の胸の奥で何かが震えた。月命日。誰の月命日なのか、ずっと問わずにいた。
一郎は蔵の扉に手をあてた。扉板の木目をなぞるように、ゆっくりと指先を動かす。
「あんたが誰なのか、おれにはわからないままだ。ただ、子供の頃からそこにいた。叔母上が何度片づけようとしても、必ずまた元の場所に戻ってくる。おれが戻してやっていたんじゃない——おれが戻す前に、いつのまにかそこにある」
声に、かすかな苦さが混じった。
「おれは合理を信じている。信じていなければ、この家を守れない。だから怖いんだ。あんたが理屈で説明できない何かだと、薄々わかっているから」
一郎が顔を上げた。月を見た。澄乃には、その横顔の輪郭だけが見えた。きりりと結ばれた口元と、少しだけ眉根を寄せた表情と。ふだんの彼からは決して見せない、剥き出しの何かがそこにあった。
孤独だ、と澄乃は思った。
この人は、ひどく孤独だ。
誰にも言えないから、人形に話しかけている。合理を纏い、感情を削ぎ落として、それでも毎年この夜にひとりで蔵の前に立つ。それ以外に、この執着を置く場所がないから。
澄乃の胸の奥に、見知らぬ感情が滲んだ。哀れみとは少し違う。いたわりとも違う。もっと衝動的な、もっと根元的な何かだった。
——この人を、守りたい。
思った瞬間、自分でも驚いた。澄乃は唇をきつく結んだ。こんな感情を抱く理由など、どこにもない。一郎は澄乃の素性を疑い、叔母の糸は澄乃を排除しようとしており、澄乃自身は花嫁人形の謎を解くためにこの家に潜り込んでいる奉公人に過ぎない。それなのに。
一郎がふいに動いた。扉を引き、蔵の中へ向かおうとする。
澄乃は音を立てずに後ずさった。廊下を引き返し、角を曲がり、自分の部屋へ続く廊下をひた走る。草履の音が立たないよう気をつけながら、息だけが荒くなっていく。部屋に滑り込み、行灯を落として布団に横になった時、心臓がまだ速く打っていた。
見てしまった。
見てはいけないものを、見てしまったのかもしれない。
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その夜、夢を見た。
見慣れた廻廊だった。石を積んだ壁が左右に迫り、燭台の炎だけが揺れている。幕末の闇の底に続くあの地下廻廊——しかし夢の中では、澄乃は歩いていない。廊下の中ほどに立ち尽くしていた。
そこに、朱乃がいた。
打掛は白ではなく深紅だった。夢の中では、いつも少しだけ違う。朱乃の顔は相変わらずぼんやりとしていて、目鼻立ちははっきりしないのに、表情だけが伝わってくる。今夜の彼女は、どこか急いているようだった。
「澄乃」
名前を呼ばれた。声は花びらが散る音のように柔らかく、それでいてどこか切実だった。
「あの人を救って」
澄乃は口を開こうとした。しかし夢の中ではうまく声が出ない。代わりに、目だけで問い返す。あの人とは、誰のことか。
朱乃は答えた。ただし言葉ではなく、ひとつの像を澄乃の眼裏に押し込んできた。
月明かりの中、蔵の前に立つ一郎の横顔。
「あの人は縛られている」と朱乃は言った。「わたしに縛られている。わたしのせいで、あの人は誰も愛せないままでいる」
澄乃は廊下の石壁に目をやった。刻まれた文字が灯りを受けて浮かんでいる。和歌の断片——まだ読み解けていない部分が、闇の中に沈んでいた。
「朱乃さん」
今度は声が出た。「あなたが解放されれば、あの人も——」
「ひとりでは駄目なの」
朱乃が首を振る。「わたし一人が解放されても、あの人の魂まで解けはしない。あの人には、隣に誰かいなければならない。百年、誰もいなかったから」
炎が揺れた。廻廊が遠くなっていく。朱乃の像が薄れていく。
「急いで」と最後に声が聞こえた。「糸が動いている。時間がない」
澄乃は手を伸ばした。しかし指先は何も掴まなかった。
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目が覚めると、空はまだ暗かった。
行灯は落としたままで、部屋の中には窓の格子から差し込む月光だけがある。澄乃は起き上がり、膝を抱えた。
朱乃の言葉が胸に残っていた。縛られている、という言葉が。百年、誰もいなかった、という言葉が。
澄乃は唇を動かした。声には出さず、心の中で和歌の一節を辿る。藤原家に伝わる古い歌の断片——「春の泥に誓ひし言葉、誰かため」。地下廻廊の石壁に続きが刻まれているはずの、その歌。哲三と共に確かめに行かなければならない。それが急務であることは、夢の前からわかっていた。
だが今は、もう一つのことを考えていた。
一郎が蔵の前で言った言葉を。「おれは何も変えられないまま、また同じ夜に立っている」という言葉を。
澄乃は立ち上がり、暗い窓の外を見た。蔵のある方角に目をやる。白壁はもう見えない。夜の底に沈んでいる。それでも澄乃には、まだそこに一郎が立っているような気がした。月光の中で、誰にも届かない言葉を誰かに向けて語りながら。
——この人の隣に、立てるだろうか。
自問した。答えは出なかった。ただ、胸の奥の衝動は消えなかった。先ほど感じた、あの根元的な何かは、むしろ少し大きくなっていた。
糸が動いている、と朱乃は言った。
時間がない、と。
澄乃は拳を握った。明日の夜、哲三と廻廊へ向かう。歌の続きを解読する。そして——その先を、まだ澄乃は見通せなかった。ただ、足を止めるつもりはなかった。
縁側の外で、梟が一声鳴いた。
夜はまだ深かった。