三月の風はまだ爪を持っている。
それでも西陣の朝は、どこかそわそわと浮き足立っていた。軒先に吊るされた染め見本が風を孕んでふくらみ、荷車の車輪が石畳を軋ませる音が、いつもより弾んで聞こえた。柊屋の暖簾が新しく仕立て直され、紺地に白く染め抜かれた柊の紋が、春の光を受けてきりりと翻っている。
春の展示会まで、あと十日。
澄乃は蔵の前に積み上げられた反物の山を前に、小さく息を吸った。帯締めの見本が二十本、帯揚げが三十枚、そこへ反物を合わせてゆく作業は、見た目よりずっと体力と目を要する。昨日の夜にはお春が「澄乃さん、指が吸いつくみたいに反物を触るんやから、才覚あるわ」と笑っていたが、澄乃自身にとっては才覚などというものでなく、ただ幼いころから見慣れた色の世界を手繰り寄せているだけのことだった。
公家の屋敷には、古い着物が残っていた。虫に食われ、色の褪せたそれらを、亡き祖母が大事に畳み直しながら語ってくれた。「この藍は、花の夜明けの色や。この紅は、夕暮れが水に溶けた色や」と。澄乃の目には今でも、その声とともに色が見える。
「澄乃、こっちも頼む」
帳場から一郎の声が飛んできた。低く、簡潔で、感情の起伏を感じさせない声。澄乃は「はい」と返事をして、重ねた反物の端を揃えながら立ち上がった。
今日の一郎は白い筒袖の着物に仙台平の袴をつけ、帳面を手に帳場と蔵の間を行き来していた。西洋風の眼鏡をかけることもある一郎が、今日は素顔のままでいる。それがどういうわけかひどく素朴に見えて、澄乃はそちらを見ないようにしながら蔵へ向かった。
蔵の中は薄暗く、ひんやりとしていた。棚には整然と反物が並び、それぞれの棚札に品番が書かれている。澄乃は一郎から渡されていた品番の紙を見ながら、一つずつ確かめてゆく。
桜色の綸子、若草色の縮緬、白藤に霞を刷いたような淡い紫の塩瀬——。
澄乃の手が、ふと止まった。
棚の奥に、帯の見本が束ねられたままになっている。金糸で菊を織り出した格調ある帯だが、添えられた反物の色見本と並べると、どこかちぐはぐだった。金が強すぎて、反物の淡さを殺してしまっている。
しばらく考えてから、澄乃は別の棚へ回った。展示会の帳面には載っていない品番だったが、去年の秋口に仕入れたと聞いた帯がそこにあった。白銀に菊を織り込んだ、慎み深い光を持つ帯。それを引き出して、淡紫の反物に重ねてみる。
——ああ、これだ。
心の中で、亡き祖母の声がした気がした。
「色は喧嘩させたらあかん。ようく話を聞いてやらんと」
澄乃は帯と反物を両腕に抱えて、帳場へ戻った。
「あの、出しゃばるようで恐縮なのですが」
一郎が帳面から目を上げる。澄乃は素直に続けた。
「桜色と若草には今の金の帯でよろしいかと思います。けれどこの淡紫には、こちらの白銀の帯のほうが、色が喧嘩せずに済むかと。古い歌に、霞は光を呑んで初めて霞と呼ばれる、とありまして——色の加減がそれに似ていると思いました」
一郎は無言で両方の帯を手に取り、それぞれを反物に当てた。しばらくの間、ただじっと見ている。帳場の外を荷車が過ぎ、遠くで鳶が鳴いた。
「……確かに」
短い、それだけの言葉だった。
「お前の言う通りだ。帳面を直す。よくやった」
澄乃は一瞬、耳を疑った。
よくやった。
一郎の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかった。いつも彼は正確で公正だが、褒めるということをしない人だった。悪ければ指摘し、良ければ黙って受け取る——そういう人だと、澄乃は思い込んでいた。
「……ありがとう存じます」
声がかすかに上擦った。澄乃は慌てて頭を下げ、蔵へ戻ろうとした。そのとき、廊下の角からお春の声が飛んできた。
「聞こえてましたえ!」
振り返ると、お春と、もう一人の女中のさよが、廊下の陰から首を伸ばしてにやにやしていた。
「坊ちゃんがあないにはっきり褒めるん、うちここ来て三年、初めて聞きましたわ。澄乃さん、すごいすごい!」
「お春ちゃん、坊ちゃんに聞こえる!」
「ええやないですか、聞こえたって」
さよが口を押さえて笑い、お春は澄乃の袖を引いて小声で続けた。
「ほんまに、あの方が人を褒めるの珍しいんやから。澄乃さんのこと、ちゃんと見てはるんやわ」
澄乃の頬に、じわりと熱が集まった。
「そんな大袈裟な。ただ帯の話をしただけです」
「大袈裟やないて。ねえ、さよちゃん」
「ほんまに」
二人は声を揃えて笑い、澄乃はたまらず蔵へ逃げ込んだ。棚に並んだ反物に向き合いながら、ひとつ深く息を吐く。
よくやった、という言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
単純だと思う。褒められて喜ぶなど、子供のすることだ。それに、一郎が褒めたのは澄乃ではなく、帯の選択という行為を評価したに過ぎない。そう言い聞かせても、胸の中の温度はなかなか下がらなかった。
——まあ、悪い気はしない。
澄乃は棚の反物に指先を触れながら、素直にそう思った。
それだけのことだ、と自分に言い聞かせながら。
*
夕刻、糸が帳場に姿を見せた。
柊屋の帳場に糸が来るのは珍しいことではなかったが、今日は展示会の品揃えを確かめに来たと言い、澄乃が色合わせをした反物と帯の組み合わせを一つ一つ手に取って眺めた。
澄乃は少し離れた場所で反物の畳み直しをしながら、糸の様子を横目で見ていた。
糸は美しい人だった。一郎の叔母にあたるというが、年齢より若く見え、仕草の一つ一つに研ぎ澄まされた気配がある。笑うときも目が笑わない。その目が今、展示台の上に並べられた淡紫の反物と白銀の帯に止まっていた。
「誰がこれを合わせたのえ」
静かな声だった。帳場に控えていた手代が「澄乃さんが」と答える。
糸はゆっくりと顔を上げ、澄乃を見た。
「あら」
それだけだった。それだけなのに、澄乃の背筋に細い針が刺さるような感覚があった。
「ええ目をしてはるのね」
糸は微笑みながら言った。柔らかく、穏やかな、それでいてどこかひんやりとした声で。
「奉公の子にしては、随分と目が肥えてる」
澄乃は頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
「謙遜しなくていいわ。本当のことを言うたまでやから」
糸はもう一度、澄乃をじっと見てから、何事もなかったように帳場を出ていった。
残された澄乃は、手の中の反物が少し重くなったような気がした。
——あの人は、何を見ている。
ただの褒め言葉ではなかった。目が肥えている、というのは、どこでその目を養ったのかを問うているのと同じだ。奉公の子ならば養われるはずのない目を、澄乃は持っている。それを糸は知っている。
知っていて、言った。
だとしたら、この平穏な春の一日に、糸はすでに針の先を向けている。
澄乃は静かに反物を棚に戻した。夕暮れの光が蔵の小窓から差し込み、並んだ布の色を橙に染め上げた。
美しい光だった。
朱乃の夢で見た、血のような赤とは違う、柔らかな色だった。
それでも澄乃は、この穏やかな夕暮れが永くは続かないことを、どこかで感じていた。春は来ている。だがその春の土の下に、まだ何かが眠っている。
哲三にいつ連絡を取れるか、一郎と話さなければならない。
澄乃は袖の中で、静かに指を組んだ。