寄合の場所は、村の中央に建つ農協の旧倉庫だった。板張りの床に灯油ストーブが三台並べられ、煤けた天井からは裸電球が一本だけ垂れ下がっている。昭和三十年代から時が止まったような空間に、十数名の男たちが低い声で言葉を交わしていた。
朔が引き戸を開けると、話し声がすうっと引いた。振り返る顔、振り返る顔、すべてに同じ表情が浮かんでいる。敵意ではない。それよりも静かで、それよりも根の深いものだ。まるで朔というものをすでにどこかで知っていて、それでも初めて見るふりをしているような、そういう目だった。
「先生、よくいらっしゃいました」
奥から歩いてきた男が、穏やかに言った。
四十代半ばだろう。背が高く、肩幅が広い。紺色の作業着の上に綿入れを羽織っているが、その立ち姿には農作業の疲れよりも、何か別の重みが滲んでいた。顔立ちは整っており、目元が紬によく似ている。眉の角度、瞼の形、そのすべてが同じ血の通り道をたどっている。
「綾部透と申します。村の祭祀を預かっております」
差し出された手は大きく、節くれ立っていた。朔は握り返しながら、その手が思ったより冷たいことに気づいた。
「白瀬朔です。先月着任しました。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」
「いいえ」と透は首を振り、唇だけで笑った。「雪が深うなる前に一度お話できればと思っておりましたから、ちょうどよかった」
ストーブの傍に場所を作ってもらい、朔は腰を下ろした。麦茶が配られ、ぬるかった。寄合の名目は雪かきの当番割りと冬の農道整備についてで、議題はとくに難しいものでもない。朔は頷きながら聞いていたが、その間じゅう、透の視線が時おり自分に向けられていることを感じていた。直接ではなく、斜めから。品定めするのでも警戒するのでもなく、ただ確かめているような目だった。
寄合が一段落したところで、透が煙草に火をつけながら言った。
「先生は、都会のご出身で」
「ええ。仙台です」
「そうですか」透は煙をゆっくり吐き出した。「こちらの暮らしはだいぶ違うでしょう。不便なことも多いと思いますが、慣れれば悪くないものです。村の人間は皆、心やさしい」
「そう感じています」
「ただ」と透は続けた。その声はまだ穏やかだったが、何かが変わった。温度ではなく、密度が。「ここには古くからの習わしがある。都会の物差しで測れないものが、この村にはある。先生のような方には奇妙に映ることもあるかもしれませんが、それが村の人間を長年守ってきた。私どもはそのことを大切にしておりますゆえ」
朔は透を見た。透も朔を見た。ストーブの燃える音だけが、しばらく部屋の中を占領した。
「もちろん、存じています」朔は答えた。「赴任前にも少し調べてきました」
「それはよかった」透は煙草の灰を落とした。「であれば、余計なことは申し上げるまでもないですね」
余計なこと。その言葉は、刃のように薄かった。切ろうとするのではなく、ただそこに置いてある。触れる側が傷つくような、そういう種類の薄さだった。
朔は何も言わなかった。言える言葉が見当たらなかったのではなく、この場でそれを言っても意味がないと、体の深いところが告げていた。
帰り際、透が玄関先まで送ってきた。雪は止んでいたが、夜気は骨まで刺さる。
「子どもたちはどうですか」と透が訊いた。
「皆、真面目です。学ぶことへの意欲がある」
「そうですか。紬はどうです」
名前を出すとき、透の声は少しだけ変わった。愛情とは違う。義務に似た、しかし義務よりも暗い何かだった。
「静かな子ですね。でも、よく考えている」
透は短く頷き、それ以上は何も言わなかった。朔は頭を下げて、雪の夜道を歩き始めた。
背中に視線を感じた。振り返らなかった。
分校まで戻る道は二十分ほどで、街灯は三本しかない。朔は懐中電灯を手に、踏み固められた雪道を進んだ。息が白く、すぐに夜に溶けた。
ふと気づいたのは、集落の外れに差し掛かったときだった。
村人たちが、雪の上のある区画を避けて歩いている。
道幅は十分にある。しかし朔の前を歩いていた老人が、何かに気づいたように少し手前で足を止め、遠回りをした。雪が踏まれていない区画が、路肩の杭二本を結んだ線の内側に、きれいな長方形で残っている。昨日も雪が降ったはずなのに、その区画だけは誰にも踏まれていない。
朔は立ち止まり、足元の雪を見た。
何もない。ただの雪だ。
しかし誰も踏まない。
なぜかと訊ける相手が、今この夜道にはいなかった。老人の背中はすでに闇の向こうへ消えている。朔はしばらくその白い長方形を見つめ、やがて自分も無意識に迂回していることに気づいて、苦く笑った。理由もわからないまま、体が先に従っていた。
分校が見えてきたとき、朔は立ち止まった。
外壁に、何かが貼ってある。
駆け寄り、懐中電灯で照らした。白い紙を人の形に切り抜いたものが、一枚、校舎の板壁に貼り付けられていた。糊ではなく、細い針で留めてある。紙は薄く、風に少し揺れているが、剥がれる気配がない。人形の頭の部分には、墨で点が二つ打たれていた。目だった。
目は、朔を見ていた。
正面から、まっすぐに。
朔は手を伸ばしかけて、止まった。何かが、触れることを躊躇わせた。合理主義の自分が「ただの紙だ」と言う声よりも、もっと古い場所から来る声が「待て」と言っていた。
懐中電灯の光の中で、紙人形は静止している。首を傾けているように見えるのは、風のせいだ。そう思った。そう思おうとした。
やがて朔は、写真だけ撮って、その夜は触れなかった。
宿舎に戻り、上着を脱ぎながら、透の声を思い出した。
*余計なことは申し上げるまでもないですね。*
あの丁寧な物腰の奥に、何があるのか。礼儀という薄い布の下に、何が縫い込まれているのか。
朔は窓の外を見た。雪明りの白さが、夜を薄く照らしている。
紬の指先の震えを、思い出した。
白い押し花が机から落ちる瞬間を、思い出した。
花嫁、という言葉を、誰かから聞いた気がした。この村に来る前か、来てからか、それとも——もっと遠い昔か。
答えはまだどこにもなかった。ただ確かなことが、一つだけある。
あの紙人形は、今日貼られたものではない。
針のまわりの板が、わずかに朽ちていた。