囲炉裏の火が、低く揺れていた。
蛭田志津の家は、村の外れの斜面に張り付くようにして建っており、屋根の雪が音もなく落ちるたびに、小屋全体が小さく震えた。朔が土間に足を踏み入れると、煤けた梁の隙間から冷気が滲み、それが囲炉裏の熱と混ざり合って、奇妙な澱みをつくっていた。
昨夜の鳥居の人影が、まだ網膜の裏に貼り付いていた。白い着物。足跡のない雪。そして透の声の、百年の重みを帯びた圧迫感。朔は眠れなかった。夜明け前に布団を出て、気づけばこの小屋の戸を叩いていた。
志津は起きていた。まるで来ることを知っていたかのように、すでに二つの椀に茶を注いで待っていた。
「座りなされ」
老婆は朔の顔を見ず、炭を一つ、火の中へ落とした。朔は言われるままに框に腰を下ろし、差し出された椀を両手で受け取った。熱が、凍えた指先に染みた。
しばらく、誰も口を開かなかった。志津は火の粉を眺め、朔は茶の表面に映る揺らぎを見つめた。言葉を探すより先に、この沈黙が何かを決定しているような気がした。
やがて志津が言った。
「透に会ったんじゃろ」
朔は頷いた。
「圧倒されたか」
「……はい」
「そうじゃろな」と老婆は静かに言った。「あの男は嘘をついておらん。あれが正直に信じておることを、口にしておるだけじゃ」
「でも紬さんを——」
「わかっておる」
志津は初めて朔の目を見た。その瞳の奥に、何か長い時間を通り抜けてきたものの色があった。諦めとも怒りとも異なる、もっと根の深い何かが、静かに澱んでいた。
「あんたが知りたいのは、なぜ止めてはいけないか、じゃろ。透に言われたろ。止めたらもっと悪いことが起きると」
「言われました」
「……それは、本当のことじゃ」
朔は息を飲んだ。
老婆は囲炉裏から目を離し、膝の上で手を組み合わせた。節くれだった指が、互いをゆっくりと握りしめる。それはまるで、今から吐き出す言葉の重さを、自分の肉体で支えようとしているかのようだった。
「わたしに姉がおった。葛(かずら)という名の、美しい娘じゃった」
声に変化はなかった。ただ、炭が一つ、音を立てて崩れた。
「葛が十六のとき、人形に選ばれた。わたしはまだ十二じゃった。なぜ姉が、と思うた。姉は優しゅうて、笑うのが好きで、春になったら山の向こうの男に嫁ぐ約束をしておった。そんな姉が選ばれた」
朔は何も言えなかった。
「透の父親、いや、その前の代の祭祀の者が言うた。人形が決めたことは覆せない、と。村の者は皆うつむいた。姉の許嫁も、うつむいた。姉だけが、泣かなかった」
志津は一度、目を閉じた。
「わたしは止めようとした。十二の子どもが何をできるというわけでもなかったが——人形を隠した。神社の祠から盗み出して、山の中の古い祠に埋めた。誰にも言わずに」
朔の心臓が、重く打った。
「儀式の夜、人形はなかった。祭祀の者たちは慌てた。姉は呼ばれなかった。わたしは、やり遂げたと思うた」
老婆の声が、ここで初めて揺れた。ほんの少し、砂が崩れるように。
「その冬、雪が溶けなかった」
朔は顔を上げた。
「春になっても、夏になっても、雪が溶けなかった。作物が育たなかった。獣が山から下りてこなかった。川の魚が消えた。村は飢えた」
囲炉裏の火が、一際低く沈んだ。
「最初に死んだのは、隣の家の三つになる子じゃった。次は五つの子。それから七つ。十になる前の子どもたちが、次々と死んでいった。熱が出て、食べられなくなって、三日ともたずに逝った。医者を呼ぼうにも、雪で道が塞がれておった。大人は死ななかった。年寄りも死ななかった。子どもだけが死んだ」
朔は声を出せなかった。
「三年の間に、十七人の子どもが死んだ」
数字が、空気の中に沈んでいった。
「姉は消えなかった。人形に捧げられなかったから、姉は生きておった。でも姉は笑わなくなった。子どもたちが死ぬたびに、姉の顔から何かが削れていった。三年目の冬に、姉は自分から人形のところへ歩いていった。わたしが埋めた場所を、どうして知っていたのかはわからん。ただ姉は、山の中へ入って、戻らなかった」
志津は目を開いた。その目は、乾いていた。もう何十年も前に、流せるだけの涙は流し尽くしてしまったのだろう。
「雪は溶けた。翌春に、ようやく雪は溶けた。子どもたちの墓だけが、白い花の下に並んでおった」
朔は、ずっと握りしめていた椀の熱が、いつの間にか失われていることに気づいた。
「それが、わたしの罪じゃ」
老婆の声は、静かだった。静かすぎて、その静けさそのものが重力を持っているようだった。
「姉ひとりを救おうとして、十七人の子どもを殺した。透の父親は言うた。お前が人形の意志に逆らったから、村が罰を受けたと。あの男は正しかった。わたしには反論できなかった。今もできん」
「でも」と朔は言った。声が掠れた。「でも、それは——」
「理不尽じゃ、と言いたいか」
志津はかすかに頷いた。
「そうじゃ。理不尽じゃ。しかしあの人形の中にいるものは、理を持たん。怒りしか持たん。百年前に花嫁として捧げられた娘の、その怒りじゃ。行くことを拒んだ者への怒りではない——忘れられたことへの怒りじゃ。正しく送られなかった魂の、ただの怒りじゃ」
朔は唇を開いたが、言葉が出なかった。
「止めることは、できん。止めれば、またあの三年が来る。子どもが死ぬ。わたしはそれを知っておるから、何もできずにおった。六十年以上、何もできずに、ここに座っておった」
老婆は再び火を見た。その横顔に、炎の揺らぎが橙色の影を落とした。
「あんたが来るまでは」
最後の一言が、静かに落ちた。
朔は志津の横顔を見つめた。六十年という時間の長さが、急に実体を持って迫ってきた。この老婆は、十二歳のあの冬から、ずっとこの村にいた。十七の墓を見ながら、姉の消えた山を見ながら、次の犠牲者が選ばれるたびに黙って見ていた。それが志津の罰だったのか、それとも別の何かを待っていたのか。
「あんたが来るまでは」という言葉の意味を、朔はまだ正確に掴めていなかった。
しかし今は、問い返す言葉を持てなかった。
囲炉裏の炭が、再び音を立てた。灰が舞い、闇の中に散って消えた。外では雪が降り続けており、この小屋を世界から切り離すように、静かに積もり続けていた。
志津がゆっくりと口を開いた。
「もう少し、聞けるか」
その声の奥に、老婆がまだ語っていない何かが、暗く沈んでいた。