朔が透のもとへ向かったのは、志津の家を辞してからまだ一時間も経たない夕刻のことだった。
空は低く垂れ込め、雪雲が山の稜線を呑み込んでいた。白妻村の夕暮れはいつも唐突だ。西の光が山に遮られると、あとは夜が一気に落ちてくる。足の下で雪が鳴く。きゅう、きゅう、と、踏まれるたびに小さく息をするように。
透の家は村の中央、神社の裏手に構えた大きな農家だった。年季の入った板塀に、石造りの門柱。表札はない。必要がないのだろう。この村で「綾部」といえば、誰もが頭を垂れる家だと、朔はすでに知っていた。
格子戸を叩くと、すぐに引き戸が開いた。
透が立っていた。
四十代の後半だろうか。痩躯だが、背が高い。黒い作務衣の上に厚手の羽織を重ねており、その整った顔には感情というものが最初から彫られていないかのように見えた。目の奥だけが、わずかに動いた。朔を見て、何かを確かめるように。
「白瀬先生」
透の声は低く、穏やかだった。怒りも驚きも、そこにはなかった。まるで最初から来ることを知っていたかのような静けさだった。
「上がりますか」
「結構です」
朔は敷居を跨がなかった。跨いだら負けるような気がした。馬鹿げた感覚だと思ったが、追い払えなかった。
「紬さんを、儀式に使うことは認めません」
言葉は声に出す前から何度も頭の中で転がしていた。それでも、いざ口にすると、薄っぺらい音に聞こえた。雪の積もった無音の庭に、その言葉だけが浮いて消えた。
透はしばらく朔を見ていた。品定めをするのでも、嘲るのでもない。ただ見ていた。長い沈黙ののち、透はゆっくりと腕を組んだ。
「儀式、ね」
静かな声だった。
「あなたはそう呼ぶんですか。あれを」
「呼び方が問題なんじゃない」
朔は声を上げないよう、意識して喉を抑えた。
「十六歳の子どもが、魂を縛られようとしている。それを止める。それだけです」
「縛られる」
透は短く繰り返した。首を少しだけ傾けた。
「あなたには、そう見えるんですね」
「見えるも何も、紬さんの手に文字が浮いている。夢を見せられている。あれが呪いでなくて、何だというんですか」
「護り、と言う者もいます」
透の声には熱がなかった。論争をしたいのではない、という態度がかえって朔の胸を焦らした。
「百年、この村は続いてきた。雪崩もなく、飢えもなく、疫病も他の山村ほどには村を滅ぼさなかった。なぜか、わかりますか」
「花嫁人形のせいだと、言いたいんですか」
「せい、ではない。おかげです」
透の目が細くなった。
「ひとりの少女の魂を村の中心に置き、村全体がその魂の揺らぎを感じながら暮らしてきた。それが何百年も続いた。あなたはそれを一朝一夕で裁こうとしている」
「裁いているんじゃない」
朔の声が、思いの外鋭くなった。
「終わらせようとしているんです。百年前に死んだ少女が、今も消えることなくそこにいる。それは哀れじゃないですか。あなたには、それが見えないんですか」
沈黙が落ちた。
透は、組んでいた腕をゆっくりと解いた。そして一歩、前へ出た。
朔は身構えた。拳を握ろうとして、やめた。
透の手が上がった。
それは暴力ではなかった。
透の右手が、静かに、朔の左頬に触れた。押す、というより、添えるような動作だった。しかしその手には、重さがあった。体の芯から滲み出るような、静かで確かな力が、朔の頬を通じて首へ、肩へ、足元へと伝わった。
朔の足が、一歩、下がった。
逆らえなかった。力ずくで押されたわけではない。それなのに、抗う言葉も体も、どこかへ消えてしまったような感覚だった。
「お前が来る前から、この村は続いてきた」
透の声は、ほとんど囁きに近かった。
「お前が来た後も、続いていく」
手が、離れた。
朔は格子戸の前に立ち尽くしていた。透はすでに踵を返しており、廊下の奥へと歩いていく。その背中は、追うことを最初から想定していないような、完全な静けさだった。引き戸が、音もなく閉まった。
朔は何も言えなかった。
気がつくと、村の道の上に一人で立っていた。
夜が落ちていた。
雪灯りだけが、青白く道を照らしている。遠くで、誰かの家の窓が光っていたが、その光もすぐに消えた。朔は拳を握り、解き、また握った。頬には、まだ透の手のひらの重さが残っているような気がした。
怒りは確かにあった。
しかしそれよりも強く、朔を蝕んでいたのは別の感覚だった。
自分が、完全に、この村の外にいるという感覚だった。
教師として赴任してきて三ヶ月が経つ。子どもたちと言葉を交わし、親たちに挨拶をし、村の行事には顔を出してきた。しかしそのすべてが、薄い膜の外側でのことだったのかもしれない。この村の時間は朔の三ヶ月などとは全く異なる速度で流れており、百年が一枚の岩になって、朔の前に立ちはだかっている。
志津の言葉が、耳の中に戻ってきた。
『返し言葉を、あんたが知る必要がある。でも、それはまだ早い』
まだ、早い。
何を待てというのか。
紬の手には、すでに文字が浮いている。儀式の日取りは決まっているはずだ。雪解けよりも前に、春が来る前に、あの人形は花嫁を固定しようとしている。朔にはそれが分かった。肌で感じていた。しかし感じていることと、動けることの間には、今夜見せられたような深い溝がある。
朔は足を動かした。
宿舎への道は、来た道とは逆側になる。村の端を回るように歩かなければならない。積もった雪が踝まで来て、一歩ごとに体が沈む。寒さはもう感覚ではなかった。空気そのものが朔の中へ入り込んで、呼吸のたびに肺を冷やしていく。
角を曲がったとき、朔はふと立ち止まった。
神社の鳥居が見えた。
灯籠の火は消えており、境内は暗かった。しかしその暗がりの中に、何かが白く立っていた。
朔は目を凝らした。
人だった。
小さな人影が、鳥居の内側に立っていた。白い着物を着ており、長い黒髪が肩にかかっていた。こちらを向いているのか、向いていないのか、闇の中ではわからない。
朔の心臓が、一拍、止まった。
紬だ、と思った。
しかし次の瞬間、人影は消えていた。
そこには雪だけがあった。石段の上に積もった、踏まれた形跡のない、白い雪だけが。
朔は雪を踏んで鳥居へ走り寄った。足跡を探した。
なかった。
人が立っていた場所にも、立ち去った方向にも、何もなかった。あの人影が踏んだはずの雪は、一切乱れていなかった。
朔は鳥居の柱に手をついて、息を整えた。
白い着物。黒い髪。
紬は今夜、家にいるはずだった。いや、いるはずだと思っていただけで、確かめたわけではない。
見てはいけないものを、見た。
幼い日の記憶が、不意に浮き上がろうとして、朔は強引に蓋をした。今はそれを開ける場所でも時でもない。
しかし蓋は、少しだけ、ずれていた。
雪が、また降り始めていた。