囲炉裏の火が、低く沈んでいた。
志津が黙って湯を注ぎ足した茶碗の表面に、朔はぼんやりと自分の顔が映るのを見た。歪んで、輪郭が滲んで、まるで別の人間のようだと思った。
「桃、という名でした」
老婆はそう言って、膝の上に置いた両手を、わずかに握り締めた。
白妻桃。
その名前が口に出されたとき、炉の火がふっと揺れた。風のせいではないと朔は感じた。この古い家の、壁の染みも、煤けた天井も、全部がその名前を知っているかのように静まり返った。
「明治の末のことです。この村に疫病が来た。夏の終わりから秋にかけて、子供が次々と死んで、大人もいくらか逝った。翌年の冬を越せる保証がない、そういう絶望が村中を覆っていた」
志津の声は平板だったが、だからこそ朔はその言葉の重さを正確に受け取った。語ることに慣れた重さではなく、語ることで磨耗し続けてきた重さだ、と。
「村の古老が言い出したのです。花嫁を捧げれば、山神が村を守ってくださると。人形に魂を封じる儀式は、もっと昔から伝わっていた。ただ、それまでは死者の魂を慰める為のものだった。生きた娘を捧げるのは、その時が初めてだったと聞いています」
「桃は、何歳だったんですか」
朔が問うと、志津はしばらく黙った。
「十六」
朔の胸の中で何かが落ちる音がした。十六。紬と、同じ歳だ。
「村の記録には、桃が自ら進んで名乗り出たと書かれている。家族を、村を救いたいと言って、喜んで花嫁衣装を纏ったと」
「でも」
朔は先を促した。志津の横顔が、囲炉裏の火の色を浴びて橙色に染まっていた。深い皺の一本一本が、別々の記憶を刻んでいるように見えた。
「でも、それは違うのですね」
老婆は答えなかった。かわりに、立ち上がって奥の押し入れを開けた。がたついた引き戸の音が妙に大きく響いた。ほどなく手に持ってきたのは、一冊の薄い冊子だった。表紙は煤けた和紙で、何かが墨で書かれていたらしいが、もう判読できないほど擦れていた。
「これは、わたしが若い頃に写したものです。本物はとうの昔に透の家に収められてしまった。祭祀を取り仕切る家が記録を独占する、それがこの村のやり方でしたから」
受け取ると、思ったより軽かった。朔はそっと表紙を開いた。
細い文字が並んでいた。志津が若い頃の筆跡だろう、几帳面だが少しだけ震えている。朔はゆっくりと目で追った。
そこには、桃の名が何度も出てきた。そして桃の母の名も。父の名も。
「父親が、多額の借財を抱えていた」
朔が読みながら言うと、志津が静かに頷いた。
「古老たちに呼ばれた時、桃の父親は借金を帳消しにすると約束された。それから三日後に、桃が進んで名乗り出たという話が村中に広まった。公式の記録にそう書かれた」
「三日間、何があったかは」
「誰も語らなかった。語れなかった、が正しいかもしれません」
志津は再び腰を下ろして、茶碗を両手で包んだ。その目は朔を見ていなかった。もっと遠い場所、あるいはもっと昔の時間を見ていた。
「わたしが知っているのは、桃の幼馴染みが年老いてから漏らした言葉だけです。儀式の前夜、桃はずっと泣いていたと。でも翌朝には笑っていたと。その笑顔が怖かったと、その人はそう言っていた」
怖かった。
朔はその言葉を反芻した。喜んでいるのに怖い。笑っているのに怖い。それはどういう笑顔だったのか。行き場のない恐怖や絶望や諦念が、表の形だけを笑顔に作り替えた時、人はそれを見て怖いと感じるのかもしれない。
第7話で紬の夢の話を聞いた時のことを、朔は思い出した。紬が夢の中で見た人形の着物の柄。牡丹と雪輪が交互に連なる、あの独特な紋様。それが第5話で古文書の挿絵に書き留められていた柄と寸分違わず一致していたことを、ずっと頭の隅に引っかかったまま消化できずにいた。
「あの人形が纏っている着物は」
朔は口にした。
「桃が儀式の時に着た、本物の花嫁衣装ですか」
志津が初めて、まっすぐ朔を見た。
「古文書の挿絵に描かれた着物の柄と、あの人形の着物の柄が同じです。牡丹と雪輪が交互に、肩から裾にかけて流れる柄。そんな意匠は他で見たことがない」
「……よく、気づいた」
老婆は低く言った。それは称賛でも批難でもなく、ただ確認するような声色だった。
「そうです。あの着物は桃が纏ったものそのものです。人形は後から作られたものだが、着物だけは本物が使われた。魂を繋ぎ留めるために、本人が身に着けていたものを用いる。それがこの村の作法でした」
朔の喉の奥が、冷えた。
では紬の夢の中で人形が着ていたあの着物は、百年前の少女が最後に身に纏ったものだ。儀式の前夜に泣いて、翌朝には怖い笑顔を見せた、十六歳の桃が袖を通したものだ。
「桃は今も、あの着物の中にいる」
思わず呟くと、志津が小さく目を伏せた。それが肯定だと朔は受け取った。
しばらく沈黙が続いた。囲炉裏の火が時折ぱちりと爆ぜ、煙が天井へと細く昇った。
やりきれなかった。呪いという言葉で括ってしまえば簡単だが、その中身は一人の少女の意志を無視した暴力だ。百年間、それが村を守るための正しい行為として語り継がれてきた。桃は進んで名乗り出た、桃は喜んで花嫁になった、そういう物語として。
「志津さんは、それを止めようとした」
朔は言った。これも確認だった。
老婆は少しの間があってから答えた。
「止められなかった。それが本当のところです。わたしは止めようとしたのではなく、止めたいと思ったが何もできなかっただけの人間です。だから今まで生き残っている。何もしなかった者だけが、生き残る」
その言葉には、長年をかけて自分に言い聞かせてきた響きがあった。朔は反論しなかった。
「わたしは何かできるかもしれない」
静かに、しかし確かな声で言った。
「あなたが終わりの言葉の存在を教えてくれた。わたしには何か、資格があるらしい。それが何かはまだはっきりわからないが、紬を助けることと、桃を解放することは、きっと同じ方向を向いている」
志津が朔をじっと見た。その目に浮かんでいるものが何なのか、朔には読めなかった。疑いとも期待とも取れる、複雑な光だった。
「あなたは、何者ですか」
老婆が静かに問うた。
「白瀬、という苗字。その名を名乗る者がこの村に来るとは、思っていなかった」
朔の心臓が一拍、強く打った。
「白瀬という名前が、何か」
「白妻村の白と、妻の旧字に使われた瀬の字。この村を開いた一族の末裔が名乗った苗字です。もっとも、その血筋は百年前に村を出たと聞いていましたが」
火が、また揺れた。
朔は自分の両手を見た。都会育ちの、何の変哲もない手だ。呪いを解く力がある手には見えない。でも、もしこの血の中に何かが眠っているとしたら。封じていた幼い頃の記憶の中に、その答えの端緒があるとしたら。
「もう少し、話を聞かせてもらえますか」
朔は志津に向き直って、頭を下げた。
老婆は短く息をついた。それからゆっくりと、再び口を開いた。