雪は音を殺す。

 それが昨夜から気になって仕方がなかった。東北の雪はもともと重く、湿っていて、足音も風鳴りも綿で包むように消してしまう。しかしこの朝の白妻村には、それとも違う種類の沈黙があった。まるで村全体が息を詰めているような、あるいは何かが耳をそばだてているような――朔はコートの襟を立てながら、その感覚を振り払えないまま山の斜面を登り続けた。

 前夜、紬と話した言葉がまだ胸に刺さっていた。

「わたし、死ぬことになります」

 十六歳の少女が発した言葉とは思えない静けさだった。諦めでも恐怖でもなく、ただ事実を告げるような声。それが朔にはかえって堪えた。取り乱してくれたほうが、まだよかった。怒鳴ってくれたほうが、対処できた。あの静かな受容こそが、この村の呪いの深さを物語っていた。

 俺が止める。

 誰かに言い聞かせるわけでもなく、朔は白い息を吐きながら繰り返した。雪道に残る自分の足跡が、振り返るたびに新雪に埋まっていく。進むほどに帰り道が消えていくような、そんな心細さもあったが、足は止まらなかった。

 志津の家は村の外れ、杉林と沢の挟まった谷間に建っていた。

 格子戸を叩くと、すぐには返事がなかった。二度、三度。朔が声を上げようとした瞬間、軋んだ音とともに戸が内側から開いた。

「来ると思っておった」

 志津は朔の顔を見もせず、そう言って奥へ引っ込んだ。朔は沓脱ぎに靴を揃え、土間から上がった。板間には炭火の鉢が一つ置かれ、狭い部屋をわずかに暖めていた。梁には束ねた草や干した山菜が吊るされ、古い紙の匂いと混じり合って、息を吸うだけで数十年前の時代に引き込まれるような気がした。

「あの子の夢のことです」

 腰を下ろしながら朔は切り出した。「紬が人形の夢を見ています。人形が何かを訴えているらしい。でも彼女には言葉として聞こえないと言っていた。あなたなら、その言葉が何なのか分かりますか」

 志津は炭火の前に座り、しばらく黙っていた。皺だらけの手を膝の上で重ね、炭を見つめている。その横顔には何の感情も読めなかった。

「先生は」と、やがて老婆は言った。「あの人形を、自分の目で見たか」

「見ました。私の部屋に現れた」

「触れたか」

「……いいえ」

 志津は小さくうなずいた。「よかった。触れると、向こうに引き込まれる。お前さんを引き込もうとしたはずだが、何かが邪魔をしたのだろうな」

 朔は思わず眉を寄せた。邪魔、という言葉の意味を問い返そうとして、志津が口を開いた。

「あの子が夢の中で聞く声は、言葉ではない」

 老婆の声は低く、炭の爆ぜる音と混じった。「歌だ」

 そして志津は、目を細め、口の中でかすかに音を転がし始めた。

 歌、と呼ぶには短かった。節回しは古く、三拍と二拍が交互に絡み合うような不思議なリズムだった。歌詞らしい言葉は聞こえなかったが、それでも音は確かに何かを語っていた。繰り返されるたびに少しずつ膨らみ、消え、また戻ってくる。波が砂に文字を書いては消すような、そういう歌だった。

 朔は身動きできなかった。

 聞いたことがない。なのに、懐かしかった。どこか遠い場所の記憶が、その音に引かれて水面に浮き上がろうとするような――幼い頃、誰かに聞かせてもらった歌のような。その誰かの顔が、靄の中に形を結びかけて、また消えた。

 志津が歌をやめた。

「これは」と朔は言ったが、言葉が続かなかった。

「百年前からある歌だ」と老婆は答えた。静かに、何の感傷もなく。「桃が嫁入りの夜に歌った、と言い伝えられている。あの子が人形の夢で聞くのも、おそらくこれだ」

 桃。朔はその名を頭の中で繰り返した。花嫁人形に宿る魂の名前。百年前にこの村で奉納された少女。

「桃は何を訴えているんですか」

「解放してくれ、ということだろうよ」志津の声には疲弊があった。「わしにも分からんことは多い。ただ確かなのは、あの人形が歌を止めた試しがないということだ。わしがまだ若い頃から、ずっと聞こえておった。呼吸するように、あの歌は続いている」

 朔は炭火を見た。赤い光が老婆の手の皺を深く刻んでいた。

「あなたは、かつて呪いを止めようとした」

「止めようとして、止められなかった」志津は訂正するように言った。「連れていかれる前に逃げ出すのが精一杯だった。わしには何もなかった。言葉も、手がかりも」

「言葉、というのは」

 老婆がこちらを向いた。その目に、初めて何か鋭いものが宿った。

「人形との契約には、始まりがある。始まりがあれば、終わりもある。終わらせるための言葉が、必ずどこかにある。わしはそれを探して、見つけられなかった」

 朔は喉が渇いた。

「その言葉が見つかれば、桃を解放できますか」

「できるかもしれん」と志津は言った。「だがそれを口にできる者は、誰でもいいわけじゃない。契約には相手がいる。始めた者の血を引く者が、終わらせなければならない」

 沈黙が落ちた。炭が小さく爆ぜた。

 朔は何かが自分の中で音を立てるのを感じた。扉が、あるいは封をされた箱の蓋が、内側から押し上げられるような感覚。幼い頃に封じた記憶が、また浮き上がろうとしていた。

「あの子は」と志津が言った。「あの紬という娘は、人形の声を聞いているのか」

「夢の中で、はっきりと」

 老婆は長い息をついた。それは諦めとも納得とも取れた。

「そうか」

「何がそうなんですか」

「もう始まっている、ということだ」

 志津の声は、それだけを言うために今日ここにいたような口調だった。「人形の声が聞けるということは、もう向こうが動き出したということだ。選定が終わったということだ。先生、お前さんには時間がない。あの子に残された時間も、多くはない」

 朔は立ち上がった。板間に膝を打ったが、気にする暇もなかった。

「どのくらい」

「雪が解けるより早い」

 それだけ言って、志津は炭火に目を戻した。それ以上は語らないという意志が、老婆の全身から立ち上っていた。

 外に出ると、雪は降り続けていた。さっきより密度が増したように感じられた。白妻村の集落が、谷の向こうにぼんやりと霞んでいる。屋根の形も、電線の輪郭も、雪が丁寧に覆い隠していた。

 朔は山道に立ち、しばらくそこから動かなかった。

 呼吸が白く乱れた。志津の歌がまだ耳の中にあった。三拍と二拍の繰り返し。古い音律。どこかで聞いたことのある――いや、違う。聞いたのではなく、知っていたのかもしれない。血の底に刻まれた、そういう種類の記憶として。

 俺が止める。

 今度は自分自身に言い聞かせた。誓いではなく、義務として。理由はまだ分からなくていい。紬が死んでいいはずがないというだけで、今は十分だった。

 雪が降り続けた。

 音もなく、深く、白妻村を包みながら。まるで百年分の言葉を覆い隠すように、それでもいつか解けることを知っているように、ただ静かに、静かに降り続けた。

花嫁人形と、溶けない雪の村

15

第一幕の終わり――雪が語るもの

氷室 宵子

2026-05-27

前の話
第15話 第一幕の終わり――雪が語るもの - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版