呼び出しは、夜明け前に届いた。
折り畳まれた白い紙が、宿の玄関に挟んであった。朔が気づいたのは、洗面所へ向かおうと廊下に出たときだった。板張りの床に落ちた紙を拾い上げると、几帳面な筆致で一行だけ書かれていた。
「夜明けに、社務所へ。——綾部透」
字は整っていた。乱れがなかった。感情というものを一切排した、儀式的な文字列だった。
外はまだ暗く、雪が降り続いていた。朔はコートの襟を立て、凍りついた坂道を慎重に踏みしめながら、村の奥へと向かった。夢の残滓がまだ目の裏にあった。白衣の少女と、じっと座る人形。あの夢が人形による侵入だとすれば、自分はすでにどこかに片足を踏み入れているのかもしれない、という感覚。払いのけても、払いのけても、雪のように積もってくる感覚だった。
社務所の引き戸を開けると、透は既に座っていた。
囲炉裏の火だけが灯っていた。その橙色の揺らぎの中で、透の輪郭はぼんやりと柔らかく見えたが、正面から顔を見れば、目の奥に硬いものが宿っているのがわかった。四十代半ばのその男は、白髪交じりの眉を動かすことなく、朔に顎で座るよう促した。
「来てくれたか」
「……来るしかないでしょう」
朔は火の向こうに腰を下ろした。囲炉裏の熱が膝の先に触れてくる。
「権爺さんのことを、疑っているな」
透は問いではなく、断言として言った。朔はわずかに目を細めた。
「あの手の白さは、尋常じゃなかった」
「そうだ」透は頷いた。「おひいさまに触れ続けた者の手は、ああなる」
「それを当然のこととして話しているんですか」
「当然だとは言っていない」透はゆっくりと火箸を持ち、灰を掻いた。「ただ、事実だと言っている」
朔は黙った。透が何かを語ろうとしているとき、この男は急かすほど口を閉じる、ということをすでに学んでいた。
「百年前のことを、知っているか」
透は顔を上げずに言った。炭が爆ぜる音がした。
「文献では少し」
「文献では足りない」
透はそう言って、初めて朔を正面から見た。その目には怒りも憎しみもなかった。あるのは、疲労に似た確信だった。
「明治三十二年の冬、この村は死にかけた。飢饉が三年続いていた。山の獣も川の魚も絶えた。それだけならまだよかった。疫病が来た。腹が裂けるような痛みで、子どもから順に死んでいった。三百あった家が、春までに半分以下になった。生き残ったのは百人に満たなかった」
透の声は平坦だった。記憶ではなく記録を読み上げるような、乾いた声だった。
「そのとき、村の長老が何をしたか知っているか」
「……」
「山の神と、契約した」
朔は息を吸った。
「契約」
「そうだ」透は頷いた。「おひいさまという形を作り、そこに山の神を呼んだ。百年に一度、花嫁を捧げる。その代わりに、この村を守れ、と」
「それは——」
「呪いじゃない」透の声が、初めて少しだけ硬くなった。「約束だ。神との、正式な約束だ」
朔は言葉を呑んだ。反論はいくらでも用意できた。少女を儀式に使うことの倫理的な問題、同意のない継承の暴力性、そもそも「神との契約」という概念そのものへの懐疑。しかし透は続けた。
「おひいさまに選ばれた娘は死ぬわけじゃない」
「……どういう意味ですか」
「花嫁になる。人形の中に入り、この村を守り続ける。それが花嫁の役割だ」透は静かに言った。「百年前の桃もそうだった。あの娘が自ら望んで人形に宿った。村が、家族が、生き残るために」
朔の中で何かが抵抗した。
「十六歳の少女が、自ら望んで——」
「そうだ」
「それが本当に、自由意思だと言えますか」
透はしばらく沈黙した。火が静かに燃えていた。窓の外で雪が降り続けているのが、音のなさでわかった。
「自由意思かどうかなど、どうでもいい」
透の言葉は静かだったが、重かった。石が水に沈むときのような重さで、朔の胸に落ちた。
「百年、この村は守られた。飢饉も来なかった。疫病も来なかった。山が崩れても、この集落だけは無事だった。昭和の大戦で、この村から出た男たちは全員生きて戻った。全員だ。それが証明だ」
「それは——偶然かもしれない」
「三代にわたって、か」透は口の端だけで笑った。笑いではなく、嘲りでも軽蔑でもない。ただの確認だった。「外の人間はそう言う。わかっている。だが俺たちにとって、これは信仰じゃない。実績だ」
朔は言葉を探した。透の論理には穴がある、とは思った。しかしその穴を突こうとするたびに、百年という時間の重さが邪魔をした。百年分の、死なずに済んだ命の数が。
「紬は」朔は言った。「紬は、それを望んでいるんですか」
透の目が、かすかに動いた。
「紬は綾部の血だ。おひいさまに選ばれることは、最大の名誉だ」
「そうじゃなくて」
「お前には関係ない」
声は低かったが、鋭かった。刃物を鞘から抜く直前の、金属の冷たさがあった。
「この村の娘のことを、外から来た人間がとやかく言う筋合いはない。お前が何年この土地で生きた。この雪の重さを、この冬の長さを、お前が何を知っている」
朔は口を閉じた。
反論できなかった。できなかったのは、言葉がなかったからではない。透の言葉の奥に、本物の痛みがあったからだった。この男は信じている。村を守ることを、契約を継続することを、本気で信じている。そしてその信仰は、薄っぺらな狂信ではなく、百年分の喪失と生存を積み重ねた、重い確信だった。
「一つだけ聞かせてください」
朔は静かに言った。透は答えなかったが、目を逸らさなかった。
「百年前の桃は、今も人形の中にいるんですか」
炭がまた爆ぜた。
透はその問いに、すぐには答えなかった。長い沈黙があった。社務所の壁板がきしんだ。
「いる」
やがて透は言った。
「ずっと、いる」
「それを——」朔は言葉を選んだ。「それを、幸せだと思いますか」
透の目が、初めて揺れた。微かに、ほんの一瞬だけ。波が立って、すぐに消えた。
「幸せかどうかは関係ない」
「関係あるでしょう」
「関係ない」透は繰り返した。声が、少しだけ速くなっていた。「契約は、感情で終わらせるものじゃない。約束は守るものだ。それだけだ」
朔は透を見つめた。
この男は何かを、知っている。あるいは、何かを怖れている。百年前の桃の幸不幸を問われたとき、目が揺れたのは演技ではなかった。透もどこかで、この契約の歪みを感じている。感じた上で、それでも続けると決めている。
それが一番、厄介だと思った。
「今日のところはここまでだ」透は立ち上がり、囲炉裏の火に細い木を足した。「ただ覚えておけ、白瀬。お前がどれだけ騒ごうと、おひいさまの儀式は止まらない。止めようとした者がどうなったか、村の誰かに聞いてみろ」
朔は立ち上がり、戸口へ向かいながら振り返った。
「蛭田さんのことですか」
透の背中が、一瞬だけ固まった。
それだけで十分だった。
引き戸を開けると、空が少しだけ白み始めていた。雪は降り続けていた。朔は凍った坂を踏みしめながら、透の言葉を反芻した。
契約。実績。義務。
そして百年前から人形の中にいる、桃という少女の名前。
夢の中で、白衣の少女が人形に向かって座っていた。あれは何をしていたのだろう。祈っていたのか。話しかけていたのか。それとも——謝っていたのか。
朔は空を見上げた。雪が目に落ちた。
蛭田志津は、呪いを止めようとした唯一の生き残りだと聞いた。透の背中が固まったとき、朔は確信した。志津はただの生き残りではない。あの老婆はまだ、何かを知っている。
今日、もう一度あの家を訪ねなければならない。