雪が、また積もっていた。
朝の光がまだ届かない時刻に、村の半鐘が鳴った。低く、引きずるような音だった。普通の半鐘ではない。朔はその音の質を、眠りの淵で聞いた瞬間、なんとなく理解した。誰かが死んだのだと。
急いで上着を羽織り外へ出ると、隣家の軒先に立っていた老人が振り返った。村の寄り合い所に集まれ、という目配せをする。朔が問うと、老人は短く答えた。「権爺さんだ」と。
権爺さん、というのは村で最も齢を重ねた古老で、本名を綾部権蔵といった。九十を超えた身体でありながら、先の寄り合いにも杖を突いて座っていた老人だ。眼光だけが異様に鋭く、朔に向けてひどく長い間、視線を当ててきたことを覚えている。あの目は何かを知っていた。今にして思えば、そう確信できる。
葬儀は翌日に行われた。
村の葬式は都会のそれとは全く異なる様相を持っていた。喪主は綾部透が務め、白い装束を着た村人たちが一列に並んで粛々と手を合わせる。花の代わりに榊の小枝が供えられ、焼香ではなく塩と米を器に盛ったものを棺の四隅に置く。読経は短く、代わりに老婆たちが口の中で何かを呟き続けていた。朔には聞き取れない言葉だった。
朔は末席に座り、ただ観察していた。
目についたのは、棺の傍らに設けられた小さな棚だった。白い布を敷いたその上に、小ぶりな器が一つ。水と、白い紙縒りを束ねたもの。そして——市松人形が、置かれていた。
花嫁人形だ。
紅い振袖、白い面。棺の主が生きていたとき恐れ続けたであろうその存在が、葬儀の場においても鎮座している。朔はそれが場違いだと感じた。しかし周囲の誰も驚く様子がない。むしろ当然のように、人々は人形に向けて一礼し、それから棺に向かって手を合わせる。順番がある。まず人形に礼をしてから、故人に礼をするのだ。
朔の隣に座った中年の女性が、低い声で告げた。
「おひいさまに、ご報告するんですよ」
「ご報告」
「村のひとが亡くなったこと。おひいさまはご存知でも、礼を欠いてはならない。それが習いです」
おひいさま。朔はその呼び名を、ゆっくり頭の中で転がした。呪いの根源であるはずのものを、村人たちは姫君に向けるような敬称で呼ぶ。恐れと敬意が、分かちがたく絡み合っている。
透は葬儀の間中、一度も朔と目を合わせなかった。しかしその背中は、朔の存在を常に意識していることを語っていた。肩の僅かな強ばり、指先の不自然な静止。あの男はこの場に朔がいることを快く思っていない。それでも追い出さないのは、村の習いとして余所者にも葬儀への参列を認めているからなのか、あるいは別の理由があるのか。
棺の中の権爺さんの顔は穏やかだった。眠るように、とはよく言われる表現だが、実際のところ死者の顔は眠る者のそれとは違う。どこか薄くなっている。存在の密度が、死によって均されてしまったような。
しかし気になることがあった。
権爺さんの両手が、胸の上で組まれている。その手の甲に、うっすらと白いものが見えた。最初は白粉でも塗ったのかと思ったが、そうではない。皮膚の質感が、違う。まるで霜が降りたような——あるいは、薄く凍りついたような色をしていた。
朔は隣の女性に訊こうとして、やめた。
問えば、何かを隠すような目をされると分かっていたから。
——権爺さんは、何を知っていたのだろう。
葬儀が終わり、人々が散り始めたころ、朔は人形の前で足を止めた。
白い面が、こちらを向いている。目が合う、という感覚を、人形相手に抱くことが今や朔には当たり前になりつつあった。漆黒の瞳は動かない。しかし何かを内包している。百年の重さを、あの小さな躯体に閉じ込めたような。
おひいさま。
朔は心の中で、その呼び名を使ってみた。声に出すことは、できなかった。
夜になった。
宿にしている農家の一室で、朔は布団に入りながら志津の言葉を反芻していた。白瀬という姓。かつてこの村にいた一族。花嫁布を解く方法があること。しかし解こうとした者は次の標的になること。
自分は、何者なのか。
幼い頃の記憶はひどく断片的だ。都会で育ち、母は早くに亡くなり、父は多くを語らないまま老いた。この村に来る前、朔の中に白妻村への既視感があったことも確かだ。見たことのない雪の積もり方を、知っている気がした。聞いたことのない半鐘の音を、耳が覚えていた。
それを封じていたのは、何だったのか。
眠りはすぐに来た。疲れていたのかもしれない。あるいは、呼ばれたのかもしれない。
夢の中は、白かった。
雪ではない。光だ。柔らかく、しかし四方を囲む光の中に、朔は立っていた。いや、立ってはいない。小さい。自分が子供であることを、夢の中でも理解していた。六つか、七つか。冬物の上着を着た小さな体で、朔は廊下に立っている。
古い家だった。板張りの廊下、低い天井、どこかから炭の匂いがする。見たことがあるはずがない場所なのに、知っている。足の裏が覚えている。
廊下の先に、部屋がある。
引き戸が、薄く開いていた。
見てはいけない、と誰かが言った。夢の中の声は輪郭を持たない。母だったか、父だったか。あるいは、もっと古い声だったか。見てはいけない、あの部屋に入ってはいけない、と。
しかし幼い朔の足は、止まらなかった。
引き戸の隙間から、中を覗く。
——そこには、白い着物の少女がいた。
背中を向けている。長い黒髪。細い肩。少女は何かの前に座っていた。人形だ、と朔は思った。大きな人形の前に、少女が座っている。人形と向かい合うように。まるで二人が、会話しているように。
少女の肩が、微かに揺れていた。泣いているのか、笑っているのか。その区別が、幼い朔にはつかなかった。
次の瞬間、少女が振り返った。
夢が、そこで途切れた。
朔は跳ね起きた。心臓が、羽根を持って暴れているような速さで打っていた。額に汗が滲んでいる。部屋の外、雪の積もった夜が静まり返っている。
少女の顔を、見た気がする。
しかし思い出せない。夢の記憶は指の間の水のように、覚醒と同時に零れ落ちていく。残ったのは、白い着物の背中と、人形と向かい合う細い肩と——振り返った瞬間の、息を飲むような気配だけだ。
朔は机の上に置いた手帳を引き寄せ、震える手で書き付けた。白い部屋。古い家。引き戸。白い着物の少女。人形。
書いているうちに、一つの疑念が生まれた。
あの夢は、本当に「記憶」なのか。
志津は言っていた。花嫁人形は選んだ少女の夢に入り込む、と。紬が毎夜見ているという夢。人形が訴え続けるという夢。ならば——今夜、朔が見たのは。
次の標的は、あなたになる。
志津の声が、耳の奥で鳴った。
窓の外で、雪がまた降り始めていた。静かに、静かに、白く積もっていく。この村の夜は深い。百年分の沈黙が、雪の下に眠っている。
朔は手帳を閉じた。
そして気づいた。権爺さんの手の甲の、あの白さ。夢の中の少女の、白い着物。繋がるものがあるような気がして、しかしまだ言葉にならない。
老人は死ぬ前に、何かを知っていた。そしてその知識は、白妻村の土に埋められた。
偶然か。あるいは——消されたのか。
朔はもう一度布団に横になったが、眠りは来なかった。少女の振り返った顔の輪郭だけが、暗い天井に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。どこかで見た顔のような気がする。会ったことのない誰かのような気がする。
雪は、止まなかった。