港の朝は、いつも潮の匂いから始まる。
澪が目を覚ましたとき、窓の外ではまだ鴉が鳴いていなかった。夜と朝の境目、世界がまだどちらにも決まり切っていない時間。彼女は寝床に横たわったまま、天井の染みをぼんやりと数えた。七つ、八つ、九つ。夫の顔を思い浮かべようとして、また失敗した。輪郭だけが浮かぶ。霧の中の彫刻のように、触れれば壊れそうで、しかし触れられない。
黄仁から文が届いたのは、ちょうど澪が朝の支度を終えた頃だった。
短い文面だった。「今日、一緒に歩いてほしい場所がある。千斗も来る」
澪は文を折り畳み、帯の間に差し込んだ。
――
三人が港町の南端に集まったのは、巳の刻を少し過ぎた頃だった。
黄仁は昨日よりも幾分か顔色がよかったが、それでも目の下に隈が刻まれていた。千斗は小さな革装の手帳を胸に抱えて、黒目がちな目で澪を見た。手話で「おはよう」と言い、それからすぐに「急ぎましょう」と続けた。
「どこへ行くの」と澪が黄仁に尋ねた。
「白榊の闇ブローカーが過去に関わった取引の、その跡をです」黄仁は静かに答えた。「〈無名〉さんから、一つの話を教えていただきました。昨夜、帰り際に。市場には正当な取引と不正な取引がある。その違いを知らなければ、戦い方が見えない、と」
澪は少し黙った。「それで、跡を辿ると何がわかるの」
「被害者が、いる」
その言葉が、朝の空気の中に沈んだ。
――
最初に訪ねたのは、南の路地に店を構える籠編みの老職人だった。
名を周吾という。六十を過ぎたばかりの、手の大きな男だった。かつては港で一番と謳われた籠師で、その手が編む籠は水を汲んでも歪まないと評判だった。しかし今、彼は作業台の前に座ったまま、手を動かしていなかった。
「三年前のことです」と周吾は言った。低く、乾いた声だった。「ある夜、夢の中で商人に会いました。継ぎ接ぎ市場のものだ、と言った。そのときわたしは、籠を編む喜びを売りました。対価として、病の妻の薬代を得た」
千斗が手帳に書きつけた。『自発的な取引でしたか』
「そのつもりでした」周吾はゆっくりと首を振った。「でも後から考えると、あの商人はわたしが断れない状況を作っていた。妻が今にも死にそうな夜に来て、時間を限って迫った。それは……本当に、自由な選択だったのか」
彼の手が、作業台の上で静かに開いた。
「薬代は手に入りました。妻も生きています。しかし、わたしはもう、籠を編みながら何も感じない。指が動く。形が出来る。でも、何もない」
澪の胸が、鈍く痛んだ。
彼女にも、覚えがあった。記憶を売るたびに生じた空白。それと同じ感触が、この老いた職人の手に宿っているように思えた。
――
次に訪ねたのは、北の市場で煮売りを商う中年の女だった。桂という名で、かつて歌が得意だったという。
「声を売ったわけじゃないんです」と桂は言いながら、スープの鍋をかき混ぜた。「歌うことへの欲求を、売ったんです。上手くなりたいという気持ちを。あのブローカーは言ったんです、そんな叶わない夢への執着を手放せば楽になれる、って」
千斗の手が止まった。
『それは、誰かに強いられたのですか』
「強いられてはいない、と思います。でも……」桂は鍋から目を離さずに言った。「あの人は、わたしが一番弱っている夜に来ました。夫に逃げられた翌月でした。判断力があったとは言えない」
黄仁が口を開いた。「今も、歌いたいとは思いませんか」
「思いません」桂は静かに答えた。「それが一番怖いんです。失ったことに、気づかなくなっていく」
その言葉が路地に落ちて、三人はしばらく黙っていた。
風が吹いて、煮売りの香りが流れた。
――
三件目は、少し離れた場所にある、古い紙屋だった。
店主は若い男で、二十代の半ばに見えた。しかし目だけが老いていた。彼は名乗らなかった。ただ「話を聞きに来たのなら」と言って、二人分の茶を出した。千斗には水を添えた。
「わたしは父の愛情を売りました」と彼は言った。「正確には、父に愛されたという記憶を。あの老婆の配下の商人は、そのかわりに借金の証文を返してくれると言った」
澪の息が止まった。
記憶を売る。彼女は、ずっとそれをしてきた。でも、それが不正な形で奪われた場合のことを、考えたことがなかった。
「証文は戻りましたか」と澪は問うた。
「戻りました」と彼は言った。「父は今も生きています。わたしを可愛がってくれています。でもわたしには、その温かさを受け取る場所が、もうない。父が頭を撫でても、何も感じない。笑いかけられても、遠い景色を見るようです」
千斗が手帳に文字を書いて、澪に見せた。
『正当な取引なら、こうはならない、のかな』
澪は少し考えてから、頷いた。「〈無名〉さんの取引では……少なくとも、わたしは何を失うかを知っていた。痛みもあった。でも、霧をかけられたような感覚はなかった」
黄仁が静かに言った。「不正な取引は、相手が弱り切ったときに来る。代価の釣り合いを意図的に歪める。そして、何を渡したかを曖昧にしたまま封じる」
三人は、その言葉をそれぞれの胸に納めた。
――
夕刻、三人は港の外れの石段に腰を下ろした。
海は暗く、潮が満ちかけていた。遠くで漁師たちの声がした。日常の音だった。しかし澪には、今日歩いた三人の顔が、そこにあるべき何かを抜き取られた器のように見えて仕方なかった。
千斗が手帳を取り出して、書いた。
『糸子が封鎖しようとしているのは市場だけじゃないと思う。取引の記録を消せば、不正の証拠もなくなる』
「そうね」と澪は言った。「彼女は市場を悪いものとして世間に見せながら、自分のブローカーには好き勝手やらせてきた」
黄仁は膝の上で手を組み、海を見た。「〈無名〉さんは、それを知っていて、ずっと一人で……」
「知っていたとしても」と澪は遮った。柔らかく、しかし確かな声で。「一人では限界がある。だからわたしたちに、気づかせたんだと思う」
千斗が顔を上げた。黒い目が、澪を見た。それから黄仁を見た。手帳に、一言書いた。
『一緒に、やろう』
澪は少し笑った。夫の笑い方に似ていると、かつて誰かに言われた笑い方だった。今はもう確かめる術もないが、それでも笑顔は出た。
「ええ」と彼女は言った。「被害を受けた人たちの話を記録して、取引の正当性を問う根拠にする。市場の外から、白榊糸子を追い詰める」
黄仁が静かに「わかりました」と言った。その声は、もう揺れていなかった。
三人は石段から立ち上がった。波が石壁を叩く音が、夕暮れの港に響いた。
――
その夜、澪は一人で茶店の前を通りかかった。
明かりはついていなかった。〈無名〉の姿もなかった。ただ、暖簾だけが風に揺れていた。
ふと、澪は足を止めた。
縹が、いた。
暖簾の傍らに、ぼんやりと青みがかった輪郭で。少女の幽影は澪を見なかった。ただ店の内側を、じっと見ていた。その視線の先には何もなかった。あるいは、澪には見えない何かがあったのかもしれない。
澪は声をかけなかった。
ただ、その小さな影に向かって、ゆっくりと一礼した。
縹は動かなかった。ただ、その輪郭が、一瞬だけ、ほんの少しだけ、濃くなったような気がした。
澪は歩き出した。
夜風の中で、彼女は初めて、〈無名〉が百年間何を守ってきたのかを、言葉ではなく皮膚で感じた気がした。そしてそれを守るために、誰かが傍にいなければならないのだということも。
市場の夜は、まだ遠い。
しかし、その遠さが今夜は少し変わって見えた。