市場の奥まった場所に、時の流れを忘れたような小さな茶店がある。暖簾も看板も持たず、ただ古い瓦屋根が潮風に濡れているだけの、どこか夢の縁に建てられたような店だ。〈無名〉はいつもそこに腰を落ち着け、誰も頼んでいないのに湯気の立つ茶を手元に置き、通り過ぎる客たちを眺めていた。

 その夜も彼は同じように座っていた。

 継ぎ接ぎ市場の灯りは、百年に一度の満月を受けて普段より白く冴えている。提灯の光が石畳の水溜まりに映り、揺れるたびに市場全体が息をしているように見えた。縹の姿は今夜、〈無名〉の左肩の少し後ろに漂っていた。気配だけが薄く、しかし確かにそこにある。言葉もなく、ただそこにある。それが縹のあり方であり、〈無名〉はそれをとうに受け入れていた。

 足音が聞こえたのは、市場の鐘がひとつ鳴った直後だった。

 近づいてくるのは一人で、足取りに迷いがない。しかし靴底の音は思いのほか重く、背負っているものの大きさを伝えていた。〈無名〉は茶碗を置き、暖簾の向こうを見た。

 現れたのは黄仁だった。

 白榊糸子の片腕として市場を歩き回っていた若い男。いつも飄々として、老婆の後ろに立つ影法師のような存在。その黄仁が今夜は一人で、しかも糸子の気配を一切まとわず立っていた。衿元が乱れ、額には薄く汗が滲んでいる。

「 座れますか」と彼は言った。問いかけの形をしているが、断られることを想定していない声だった。

「 どうぞ」と〈無名〉は答え、向かいを示した。

 黄仁は腰を下ろし、しばらく何も言わなかった。茶が出てきたが、彼は手をつけなかった。視線を卓の木目に落として、言葉を探しているというより、言葉を手放す順番を決めているように見えた。

「 嘘ではないと、最初に言わせてください」

 ようやく彼が口を開いたとき、〈無名〉は静かに頷いた。

「 白榊糸子は、この市場を封鎖しようとしています。正確には、百年前の取引を無効化することで、市場そのものの存在根拠を消し去ろうとしている」

 黄仁の声は平坦だったが、言葉の芯に何か固いものが入っていた。告白というより、証言に近かった。

「 あの方は長い年月をかけて、市場を憎むようになった。最初は正当な監査官として動いていた。取引の不正を糺し、均衡を保つために。でもいつからか、憎しみが先に立つようになった。市場が人から何かを奪うと、そう信じ込んだ」

「 奪う、と」

「 ええ。誰かの名前を、誰かの声を、誰かの記憶を。糸子さんはそれを、剥奪だと呼んでいます。交換ではなく。だから市場を終わらせなければならないと」

 〈無名〉は何も言わなかった。黄仁は続ける。

「 具体的な手順は、まず澪さんを揺さぶって、記憶の取引を不安定にさせる。次に千斗を帳簿から遠ざける。そしてあなたに、百年前の取引を自ら破棄させる。自発的な放棄があれば、監査官として合法的に市場の閉鎖を宣言できる」

「 私を揺さぶって、自ら手放させる、と」

「 あなたが名前を売った取引です。あれを破棄すれば、市場の時間的な根拠が消える。市場は百年前の取引によって今夜の時間に繋ぎ止められている。その錨を失えば」

 黄仁はそこで言葉を切り、初めて茶碗に手を伸ばした。飲むのではなく、ただ両手で包むように持った。

「 私はずっと、糸子さんに従っていました。理由は単純で、子どもの頃に命を救ってもらったから。それだけです。恩義を義務と履き違えていた」

 縹がわずかに動いた気がした。〈無名〉には見えない動きだが、感じることはできた。まるで縹自身が、何かを懐かしんでいるように。

「 何がきっかけで」と〈無名〉は訊いた。

「 澪さんです」黄仁は即座に答えた。「あの方が市場の片隅で、残りわずかな記憶を大事に抱えているのを見た。剥奪されたのではない、と思いました。あの方は自分で選んで売ってきた。そして今夜、取り戻そうとしている。それは交換です。奪われたのではない」

 静寂が落ちた。

 市場の外から、波の音が届いた。大潮の夜の海は声が大きく、石畳の縫い目から潮の匂いが這い上がってくる。

「 これは嘘ではありません」黄仁はもう一度、言った。「私には今、売れるものがほとんどない。名誉も矜持も、今夜糸子さんを裏切ることで消えた。残っているのは、本当のことを言ったという事実だけです」

 〈無名〉はゆっくりと息を吐いた。

「 知っていた」

 黄仁が顔を上げた。

「 糸子が何を目論んでいるか、おおよそは。彼女は長い年月をかけて準備してきた。私も長い年月をかけて、来ることを知っていた」

「 では」

「 それでもここに座って茶を飲んでいる。そういうことだ」

 黄仁はしばらく〈無名〉の顔を見つめた。飄々としていて、しかし目だけが違う。深い水底を思わせる暗さが、その双眸に宿っている。何十年分、あるいは百年分の悲しみが、ゆっくりと堆積してできた暗さだと、黄仁には感じ取れた。

「 怖くないのですか」

「 何が」

「 終わることが」

 〈無名〉は答える前に、一度だけ縹の方へ視線をやった。左肩の少し後ろ。誰にも見えない場所。

「 終わることより、中途で止まることの方が怖い」

 黄仁にはその言葉の全てが分からなかったが、核心に触れているとは分かった。訊き返す言葉を探しているうちに、〈無名〉が先に口を開いた。

「 あなたが今夜ここへ来たことは、取引になる」

「 え」

「 あなたは糸子への義理を差し出した。私は知っていたという事実を差し出した。それは交換だ。市場の外で結ばれた、ささやかな取引」

 黄仁は瞬きをした。そういう考え方を、したことがなかった。裏切りだと思っていた行為が、交換だったとするなら。失ったのではなく、変えたのだとするなら。

「 すべてはもう決まっている」〈無名〉は静かに言った。「どこへ向かうかも、何を手放すことになるかも。ただ、決まっていることと、動かせないことは別だ」

「 どういう意味ですか」

「 糸子の計画通りに進むかもしれない。しかしそれが何を意味するかは、まだ決まっていない。終わりの形だけが決まっていて、その中身はまだ白紙だ」

 黄仁は茶碗を置いた。中身はすっかり冷めていた。しかし手の平には、まだほのかな温もりが残っている。

「 私は、どうすればいいですか」

 初めて黄仁が、答えを求めた。命令ではなく、助言でもなく、ただ途方に暮れた青年として。

「 澪さんのそばにいてやりなさい」〈無名〉は言った。「千斗という少年も今夜動いている。三人が揃ったとき、何かが変わる。私の仕事はそこまでだ」

「 あなたは」

「 私は、もう少し茶を飲む」

 それだけ言って、〈無名〉は新しい茶を注いだ。湯気が細く立ち上り、市場の白い灯りの中で消えた。

 黄仁は立ち上がり、一度深く頭を下げた。何か言おうとして、言葉を選び直して、結局何も言わずに暖簾をくぐって出ていった。

 茶店に静寂が戻った。

 〈無名〉は茶碗を両手で持ち、ゆっくりと飲んだ。縹がわずかに近づいた気がした。言葉はない。ただ気配が、少しだけ温かくなった。

「 もう少しだ」と〈無名〉は呟いた。

 誰に向けた言葉かは分からない。縹へか、あるいは百年前の自分へか、それともまだ白紙の終わりの形へか。

 市場の鐘が、また一つ鳴った。

 その音が石畳に染み込んでいく間、〈無名〉の目の奥で、名前を持っていた頃の何かが、かすかに揺れた。

真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人

31

黄仁の告白

藍田 夜子

2026-06-13

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第31話 黄仁の告白 - 真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人 | 福神漬出版