夜が市場の骨格だけになる時刻がある。
客の足音も、値交渉の声も、布地を広げる音も、すべてが潮のように引いていった後、残るのは石畳の冷たさと、提灯の芯が燃え尽きる寸前の橙色だけだ。その静寂の中で〈無名〉はいつも、誰にも見せたことのない仕事をする。
木箱を取り出すのだ。
それは彼の荷の最も深いところに、他の商品とは決して触れ合わないよう、古い藍染の布に幾重にも包まれて眠っている。売り物ではない。交換の対象でもない。そういうものが商人の手元にあること自体、この市場の論理からすれば奇妙なことかもしれなかった。しかし〈無名〉は百年の間、誰にそれを咎められることもなく、その箱を守り続けてきた。
石畳の上に胡座をかき、膝の上に箱を置く。蓋を外す動作に迷いはない。指が覚えている。
まず出てくるのは一枚の絵姿だった。
縦長の紙に、墨と淡い彩色で描かれた女の顔。時代の定まらないこの港町においても、その絵の様式はひどく古めかしく見えた。百年どころか、もっと遠い時代の空気が滲んでいる。女は俯き加減で、しかし目だけが見る者を正面から捉えている。その目の描き方だけが、妙に生々しかった。線は細く、震えを含んでいて、絵師が感情を抑えきれないまま筆を走らせたことが見て取れる。
〈無名〉はその絵を、両手の指先だけで縁を持ち、提灯の光にかざした。
何かを確かめているというより、ただそこに在ることを確認している、そういう仕草だった。
次に出てきたのは、手紙の断片だった。断片、という言葉でも足りないほど小さな紙切れで、焼けた縁が黒く変色し、残っている文字も半分以上が滲んで読めなかった。読める部分には、こう書かれていた。
―――あなたが名前を失っても、私だけはあなたを
そこで文字は途切れていた。焔が飲み込んだのか、水に濡れて消えたのか、続きは永遠に判らない。〈無名〉はその断片を絵姿の隣に並べ、しばらく黙って眺めた。
その横顔を、縹が見ていた。
いつからそこにいたのか、〈無名〉には判らなかった。おそらく初めからいたのだろう。縹は市場の夜気のように、存在することと存在しないことの境界が曖昧だった。実体のない少女の幽影は、提灯の光の届かない場所に立ち、膝を僅かに折るようにして箱の中を覗き込んでいた。
その視線は、絵姿の女に向けられていた。
縹の表情が変わるのを、〈無名〉は初めて見た気がした。いつもは何を考えているのか判らない、水面のように平らかな顔をしているのに、今夜の縹は違った。何かに引き寄せられるような、あるいは何かを思い出そうとしているような、言葉にならない緊張がその輪郭に張り付いていた。
縹はゆっくりと、絵姿に向かって手を伸ばした。
細い指が、紙の表面へと近づく。
触れなかった。
触れることができなかった、というより、触れる寸前で何かに阻まれるように、指先が紙から数分の一寸ほどの距離で止まった。縹はそのまま固まった。指先が微かに震えているように見えた。〈無名〉にはそれが何故なのか、百年分の時間をかけてもまだ完全には判らなかったが、判っていることもあった。
縹はこの絵姿の女に触れてはいけないのだ。あるいは、触れることを許されていないのではなく、触れることができない何かが縹の本質の中に刻まれているのだ。
〈無名〉は静かに手を持ち上げ、宙に浮いたままの縹の手をそっと包んだ。
縹の手は温度を持たなかった。持たないはずなのに、〈無名〉の掌には何かが伝わってくる気がした。水の底に沈んだ石が、長い年月をかけて水の冷たさを自分の中に取り込んでいくように、縹の存在はいつの間にか〈無名〉の体温の形を借りて、そこに在った。
「触れなくてもいい」
〈無名〉が言った。声は低く、夜気に溶けた。市場の静寂がその言葉を飲み込み、しかし消えずに石畳の隙間へと染み込んでいった。
「お前が触れられないのは、お前のせいじゃない」
縹は返事をしない。もとより声を持たない存在だったが、今夜の沈黙は言葉がないのとは少し違う気がした。聞いている、ということが、その細い体の緊張の質から伝わってきた。
〈無名〉は視線を絵姿へ戻した。
「百年前、俺はこの女の名前を覚えていた。声も、笑い方も、怒ったときの眉の形も、全部覚えていた。覚えていたから手放せた。手放した瞬間、忘れると判っていても、それで十分だと思えた」
言葉が続く。普段の〈無名〉がこれほど話すことは稀だった。深夜の市場の骨格だけになった静寂が、彼から何かを引き出しているのかもしれなかった。
「名前を売ったのは俺自身だ。対価は理解している。この市場を守ることと、この市場に縛られ続けること。それが取引の内容だった。後悔はしていない」
しかし、と彼は続けなかった。
続けなかった部分が、夜の空気の中に形をなした。後悔はしていない、しかし何かが確かに失われた。失われたことに今更気づいても、取り戻す方法を知らない。〈無名〉の目に浮かぶ深い悲しみは、そういう構造をしていた。
縹の手が、〈無名〉の掌の中で静止している。
月光が石畳に落ちている。市場の外縁で、遠く波の音がする。百年に一度の大潮の夜は、まだもう少し続いていた。
〈無名〉は手紙の断片を拾い上げ、指の腹で焼けた縁をなぞった。読めない文字の向こう側に、続きがあることは知っていた。知っているが、それはもうどこにも存在しない。紙の上にも、誰かの記憶の中にも。
続きを書いた人間が、続きごと消えてしまったからだ。
縹がゆっくりと頭を傾けた。〈無名〉の手の甲に、その額が触れるか触れないかという距離で寄り添うように。声を持たない縹の、それが返事だった。
「澪さんが、昨日お前を見ていた」
〈無名〉は話題を変えるようにそう言った。しかしその声に込められた何かは、変わっていなかった。
「あの人はちゃんと見える。市場に来る人間の中でも、そういう目を持っている人間は少ない。お前のことを、何かだと感じていた。何であるかは判らないが、ただの影ではないと」
縹は動かない。
「いつかお前のことを、俺の口から説明しなければならない日が来るかもしれない。そのとき俺には、何と言えばいいのか、まだ判らない」
〈無名〉は絵姿を藍染の布でゆっくりと包み直した。手紙の断片もその隣に収めた。木箱の蓋を閉める。蓋が嵌まる音が、夜の静寂に小さく響いた。
それを荷の奥深くへ戻しながら、〈無名〉は独り言のように呟いた。
「縹。お前が触れられないのが、俺への罰なのか、それともお前自身への罰なのか」
返事はない。
しかし翌朝、〈無名〉の荷の外側に、一枚の薄い羽根が落ちていた。何の鳥のものかも判らない、青みがかった白い羽根が、まるで誰かが置いていったように、藍染の布の上にひっそりと乗っていた。
〈無名〉はそれを長い時間見つめ、やがて荷の外に留め置いた。
それが何を意味するのか、まだ誰も知らない。