黄仁が白榊糸子に呼ばれたのは、満月が中天を過ぎてなお高い刻のことだった。
市場の外れ、他の露店が色めき立つ喧騒からわずかに外れた場所に、糸子の店はある。店と呼ぶには狭すぎる。引き戸一枚ぶんの間口に、煙草の煙のような灰色の暖簾がぶら下がっているだけだ。それでも誰も近づかない。近づけない。暖簾に触れた者は指先から体温を一度ずつ差し引かれると、市場では罷り通っている噂だった。
黄仁はその暖簾を片手でかき分け、中へ入った。
「来たね」
糸子は縫い物をしていた。何を縫っているのか、黄仁には判別できなかった。布地に見えるものは布地ではなく、かといって皮革でも紙でもなく、何か薄く剥いだ時間の切れ端のようなものを、細い針で縫い合わせている。その手が止まらないまま、老婆は続けた。
「あの商人のことを頼みたい」
「無名、ですか」
「名前を持たぬ男に名前をつけて呼ぶとは、洒落た趣味だね」
糸子は黄仁を見上げた。目が細い。老いて細いのではなく、最初からそういう目をしているのだと黄仁は思った。品定めをするのに最適化された目。感情が覗けない。
「信頼を得てほしい。それだけだよ」
「それだけ、とは言いませんね」
「賢い子だ」
糸子はようやく縫い物を置いた。立ち上がり、棚から小さな瓶を一つ取り出す。中には液体ではなく、何か薄い膜のようなものが漂っていた。朱と金を混ぜたような色をしている。
「あの男が何を隠しているか、私は概ね知っている。概ね、というのが厄介でね。確証がない。確証のない話を監査局に持ち込んでも笑われるだけだ。だから証人が要る。市場の内側に長くいる者で、あの商人の懐に入れる者が」
「なぜ私なんですか」
問いながら、黄仁は答えを知っていた。
「お前が嘘つきだから」
嘘の才能。黄仁はそれを生まれながら持っていた。正確には、嘘をついても声が揺れない。目が揺れない。体が揺れない。嘘が皮膚に馴染む。幼い頃から親に嘘をつき、師匠に嘘をつき、買い手に嘘をつき続けてきた。市場にやってきたのも、その才能を少しだけ削って他の何かと交換するためだった。少しだけ、のつもりが、今は全部残っている。結局、削れなかった。嘘がなくなったら黄仁には何も残らないと、最後の瞬間に気づいてしまったから。
「信頼させてほしいわけじゃない」と糸子は言った。「監視してほしい。あの商人が澪という女に何を話すか。それを私に教えてくれれば、お前に蓮の話をしよう」
黄仁の息が止まった。
蓮。
その名を糸子が知っているという事実が、黄仁の背筋を冷やした。蓮は黄仁が市場に来る理由だ。誰にも話していない。話せなかった。蓮の記憶を誰かと共有したとたん、その記憶が薄れるような気がして。
「……何を知っているんですか」
「お前が今もここに留まっている理由」
糸子は瓶を棚に戻した。暗示するように、ゆっくりと。
「続きは教えてほしいことを教えてからだ。どうする」
黄仁は答えなかった。
答えの代わりに、頷いた。
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市場の裏路地は、どこもかしこも人の感情が滲んでいる。
黄仁はそこを一人で歩いた。依頼を受けた直後の足取りにしては重い。嘘の才能を持つ者が迷うとは珍しい、と自分でも思った。迷うことは苦手だった。迷う前に嘘をつく。嘘をついているうちに、嘘が本当になる。それが黄仁のやり方だった。
だが今夜はうまくいかない。
足が止まる。路地の曲がり角に、誰かが捨てていった提灯が転がっていた。火はもう消えている。黄仁はそれを拾い、しばらく手の中で転がした。
蓮の顔が浮かんだ。
蓮は笑いながら怒る人だった。口では怒鳴っても、目が笑っている。黄仁が嘘をついたとき、蓮はいつも気づいていた。気づいた上で、知らない顔をしていた。それが優しさなのか見逃しなのか、黄仁は最後まで確かめられなかった。確かめる前に蓮はいなくなってしまったから。
「お前の嘘は下手くそだよ」
蓮の声が、耳の奥で聞こえた気がした。
下手くそ。才能があるのに、下手くそ。それはどういう意味だと問い返したくて、返せなかった。
提灯を路地の端に置き、黄仁は歩き出した。
無名を探すのはさほど難しくなかった。あの商人は市場の中を緩やかに回遊している。定まった場所を持たず、しかし迷子にならない。そういう人間だ。今夜は東側の露店群のあたり、染料の匂いが漂う一角にいた。縹と呼ばれる少女の影が、その少し後ろに浮いていた。
黄仁は声をかけた。
「少しいいですか」
無名は振り向いた。深い目をしている。悲しみを湛えた、年齢の判じ難い目。その目が黄仁を一瞬だけ精査してから、緩く細まった。
「黄仁。珍しい刻に」
「話があります」
「聞こう」
縹の影が、わずかに揺れた。
黄仁は深く息を吸った。ここで嘘をついてもよかった。糸子の依頼通り信頼を演じ、何気ない会話の中に罠を仕掛け、無名が澪に話すことを引き出せばよかった。それが最も効率的だ。黄仁の才能がそう告げている。
だが。
これが最後の嘘にしよう、と黄仁は思った。
この市場での最後の嘘は、嘘をつかないことに使う。
「糸子に頼まれました。あなたを監視して、澪という女性に何を話すか報告するよう」
無名の表情は変わらなかった。目が、少し深くなっただけだ。
「それを私に言う」
「言います」
「なぜ」
黄仁は少し考えた。蓮の顔を思い浮かべながら。嘘が皮膚に馴染む男が、一晩かけて答えを出した、その答えを。
「あなたの目が、嘘をつく人間の目じゃないから」
沈黙が落ちた。
提灯の火が揺れる。遠くの露店から、誰かの笑い声が聞こえた。市場はどんな夜にも関わらず、無邪気にざわめいている。
「蓮という人を探しています」と黄仁は続けた。「糸子はその人の話を知っていると言った。だから頷いた。でも——」
言葉が詰まった。喉の奥が妙に熱い。
「蓮のために嘘をつき続けた人間が、蓮のために嘘をついたまま終わるのは嫌だと思った。それだけです」
無名は黄仁をじっと見ていた。何を量っているのか、何を確かめているのか、黄仁には分からなかった。ただその視線が重くなく、むしろ静かに温かいことだけは分かった。
やがて無名は言った。
「糸子が蓮の話を知っているとすれば、それは交換によって得た情報だ。お前が対価を払わずに聞き出せるものじゃない」
「知っています」
「それでも」
「それでも」
無名は少し笑った気がした。口元が動いたかどうかは判然としない。ただ、深い目の悲しみが一瞬だけ薄まったように見えた。
「明日、澪が来る」と無名は言った。「彼女は私に真実を問いに来る。その場に、お前がいてもいい」
「なぜ」
「証人が必要だから。嘘をつかない証人が」
縹の影が、静かに無名の背に寄り添った。
黄仁はその光景を眺めながら、蓮の顔を思った。怒りながら笑う顔を。お前の嘘は下手くそだよ、と言った声を。
もしかしたら蓮は、ずっと知っていたのかもしれない。黄仁の嘘が、いつも誰かのためにあったことを。
市場の空に、満月が傾き始めていた。