潮の匂いが、昼の港にも滲んでいた。
朱雀澪は、岸壁に沿って走る細い路地を歩いていた。籠を腕に掛け、市場通りへ向かう途中のことだ。昨夜の雨が石畳の窪みに溜まり、空の青が切れ切れに映っている。澪はその水溜まりを一つひとつ避けながら歩いた。長年の癖だった。夫と並んで歩いた頃、彼は必ず水溜まりを踏んで澪を笑わせた。今はもうその笑い声の輪郭が思い出せない。声だったか、それとも笑い方の形だったか——そこまで考えて、澪は籠の取っ手をぎゅと握り直した。
「澪さん」
声は背後から来た。
振り返ると、白榊糸子が立っていた。飴色の杖を両手で前に持ち、白い髪を綺麗に結い上げている。穏やかな笑みを浮かべているが、その目はいつも笑っていない。澪はそれを知っていた。知っていながら、逃げることができなかった。
「こんな時分に珍しい」と澪は言った。
「あなたを探していたんですよ」糸子は言い、杖の先で石畳を一度叩いた。「少し、お話ししてもよろしいですか」
断れる空気ではなかった。澪は頷き、二人は岸壁の端に据えられた木のベンチへ移った。沖では漁船が一艘、白い帆を畳みながら戻ってくるところだった。
「単刀直入に申し上げます」糸子は澪の隣に腰を下ろすと、正面を向いたまま言った。「あなたが取り戻そうとしている記憶は、もう誰かに売られてしまっています」
海鳥の鳴き声が、遠くで上がった。
澪は籠を膝の上に置き、しばらく動けなかった。言葉の意味が頭に入ってくるのに、奇妙なほど時間がかかった。売られた。誰かに。自分ではない誰かの手の中に、夫との記憶が——。
「それは」澪はようやく口を開いた。「どういう意味ですか」
「継ぎ接ぎ市場では、一度売られた品が転売されることがあります」糸子は静かに続けた。「本来は禁じられているのですが、抜け道を使う者がいる。あなたが過去に手放した夫との記憶——最初の春の日の記憶、声の記憶——それらが、既に別の買い手の元へ渡っているのです」
澪の喉が、乾いた。
市場に通い始めてから、どれだけの月日が経っただろう。少しずつ手放してきた記憶を取り戻すために、少しずつ別のものを差し出して。それが間違いだったのではなく、そもそも取引の土台が——最初から——。
「なぜ、それをあなたが知っているんですか」
糸子はゆっくりと澪を見た。「監査官ですから。市場の取引記録を閲覧する権限があります」
「では、買い手は誰なんですか。取り戻せますか」
「取り戻せます」糸子は言い切った。「私の伝手を使えば。ただし、こちらからも相手の望むものを対価として用意しなければならない。あなたが今持っているものの中で、まだ残っている夫への感情——その一部を差し出せば、話は進むでしょう」
澪は息を飲んだ。
感情を売る。残っている、その感情を。記憶を取り戻すために、感情を削る。それは正しいのか。そもそも記憶のない感情に、意味はあるのか。記憶のない悲しみは、悲しみと呼べるのか。
頭の中で問いが渦巻く間、糸子はただ黙って沖を見ていた。急かさない。それがかえって澪には怖かった。
「少し、考えさせてください」
「もちろん」糸子は立ち上がり、杖をついた。「ただし、転売品は早々に次の手へ渡る可能性がある。あまり時間はありません」
それだけ言って、老婆は路地の奥へ消えた。飴色の杖が石畳を叩く音だけが、しばらく残った。
*
澪が市場通りの外れにある茶屋で一人座っていると、卓を軽く叩く気配があった。
顔を上げると、千斗がいた。
少年は手に小さな紙切れを持っていた。筆で素早く何かを書き、澪の前に差し出す。
——糸子と話していましたね。
澪は頷いた。「ええ。見ていたの?」
千斗はまた書く。
——何を言われましたか。
澪は迷ったが、話した。記憶が転売されているということ。感情を対価に買い戻しができるということ。千斗は澪の言葉を聞きながら、表情を変えなかった。ただ目だけが、静かに険しくなっていった。
少年は新しい紙に、今度はやや時間をかけて書いた。差し出された紙に、澪は目を落とす。
——信じないでください。糸子は闇ブローカーと繋がっています。
澪は顔を上げた。千斗は真剣な目をしていた。声を持たない少年の目は、表情の全てを担っていた。その目が今、真摯に澪を見ていた。
「闇ブローカー」澪は繰り返した。「市場の外で取引をする人たちのこと?」
千斗は頷き、また書く。
——糸子が「転売済み」と告げるのは、取引を急がせるための常套手段です。本当に転売されているかどうか、記録を見るだけでは確認できない。私が調べた限り、彼女は少なくとも三人に同じことを言っています。そのうち二人は感情を対価に取引し、市場から出た後、何かが変わってしまった。
澪は紙を両手で持ち、文字を追った。手が、かすかに震えていた。
「変わってしまったって、どう変わったの」
千斗はしばらく筆を止めた。何かを選ぶように。それから書いた。
——泣けなくなった人がいました。悲しくても、泣き方を忘れてしまったような顔をしていた。
茶屋の奥で、湯の沸く音がしていた。澪はその音を聞きながら、紙の文字を見つめていた。
泣けなくなる。悲しみそのものは残っているのに、それを流す術を失う。記憶と感情は別物だと思っていたけれど、ひとつを削れば、もうひとつも形を変える——。
「でも」澪は言った。声が掠れた。「もし本当に記憶が転売されているなら、急がないといけないのは本当かもしれない。千斗くんは、糸子さんが嘘をついていると断言できる?」
千斗は、すぐには書かなかった。
長い沈黙の後、少年は書いた。
——断言はできません。
澪は目を閉じた。
断言できない。つまり、糸子が真実を告げている可能性もある。記憶は本当に誰かの手に渡っているかもしれない。でも千斗の警告も、無視できない。どちらかが正しく、どちらかが澪を望む方向へ動かそうとしている。あるいは両方が、それぞれの意図で真実を語っているのかもしれない。
誰を信じるか。
夫の声の輪郭が思い出せないまま、澪はそれだけを考えていた。
千斗がまた紙を差し出した。今度の文字は、小さかった。
——一つだけ確かなことがあります。無名さんは、市場の取引記録を全て知っています。糸子が見る記録より、深いところまで。
澪は目を開けた。
無名。名前を売り払った商人。飄々として、けれど目の奥にだけ、澪がずっと気になっていたあの翳りを持つ人。
「無名さんに、聞けるの?」
千斗は少し考えてから、頷いた。ゆっくりと、しかし確かに。
茶屋の暖簾が、潮風に揺れた。外の路地に、誰かの影が差した。澪が顔を向けると、もうそこには誰もいなかった。けれど、飴色の杖が一瞬、路地の角に消えていくのを、澪の目はたしかに捉えていた。
糸子は、まだそこにいた。
澪の答えを、待っている。