秋の雨が三日続いた。

 澪は濡れた縁側の端に腰を下ろし、庭の石畳が少しずつ色を深めていくのを眺めた。石はいつも雨に濡れると、乾いているときよりずっと正直な顔をする。苔の匂い、土の匂い、それから何か遠い場所の匂い。そういうものが雨粒に乗って届くたびに、澪の胸の奥で何かが静かに疼いた。

 疼くのだが、それが何の疼きなのか、最近ではすぐにわからなくなった。

 市場を出て、もう四日が経つ。

 継ぎ接ぎ市場は消えた。次に現れるのは、百日後の満月夜だと〈無名〉は言った。百日。澪は指を折ってみたが、途中で数えるのをやめた。数えれば数えるほど、その夜がひどく遠くなる気がした。

 代わりに、澪は硯を出した。

 文机の引き出しの奥に、ずっとしまいこんでいた細長い硯がある。夫が使っていたものだ。いや、使っていたと思う。確かめようとすると、記憶の輪郭がすうっとぼやけて、陽炎のようにゆらぐ。それでも硯はある。手触りは本物だ。ひやりとして、かすかに墨の香りが染みついている。

 澪は筆を持ち、紙を一枚引いた。

 書こうと思った。市場が開く百日の間に、覚えていることをすべて書きとめておこうと思った。記憶は売り払ったものもある。だが、売っていないものもあるはずだ。自分の中に残っているはずのものを、売り渡す前に言葉にして残しておけば、たとえ次の市場でまた何かを手放すことになっても、形だけは留められる。

 そう考えたのは、市場からの帰り道だった。暗い路地を抜け、潮の匂いのする石畳を歩きながら、澪は初めてそのことを思った。〈無名〉の目が、深い井戸の底のように暗かったことを思い出した。売り払いすぎた者は、最後には何も残らなくなる、と誰かが言っていた気がした。

 だから書く。

 筆先が紙に触れた。

  *

 一日目の手紙は短かった。

 夫の手が大きかったこと。指が節くれだっていて、でも爪だけはいつも不思議なほど整っていたこと。笑うとき、先に目が笑って、口元はほんの少し遅れてついてくること。そういう細部は、まだ鮮明だった。鮮明すぎて、書きながら胸が痛んだ。

 二日目は、夫が好きだった食べ物について書いた。

 冬瓜の煮物が好きだった。いや、好きだったと思う。澪は筆を止めた。本当に好きだったのか、それとも自分が作るから食べていてくれただけなのか、急にわからなくなった。好きか嫌いかを尋ねたことが、果たしてあっただろうか。夫は食事中にほとんど味について話さない人だった。黙って食べ、黙って箸を置き、「ごちそうさま」とだけ言う。その静けさが嫌いではなかった。むしろ好きだった。でも、冬瓜は。

 澪はしばらく考えてから、「冬瓜が好きだったかもしれない」と書いた。

 三日目には、夫と初めて会った場所を書こうとした。港の近くの魚市場だったことは覚えている。朝の光がやたら白くて、魚の鱗が光ってまぶしかった。夫は何かを買っていた。何を買っていたのか。澪は目を閉じた。魚だったかもしれない。野菜だったかもしれない。荷物を持っていたことは確かだが、その中身が思い出せない。

 思い出せないことが、売り払ったせいなのか、それとも最初から曖昧だったのか、もう区別がつかなかった。

  *

 七日が過ぎ、十日が過ぎた。

 手紙は毎日一枚と決めた。多くても少なくても、一枚。書けることが尽きた日には、欄外に季節の気配を一行だけ書き添えた。「今日は金木犀の匂いがした」「夜、遠くで船の汽笛が鳴った」。そういうことを書いていると、不思議と夫のことが傍にいるように感じられた。生きていた頃も、こんなふうに同じ空気を吸って、同じ音を聞いていたはずだと思うと、記憶は薄れても何かが消えていない気がした。

 十五日目に、澪は手が止まった。

 夫との初めての夜について書こうとした。薄い月明かりの中で、夫が何かを囁いた。声の低さは覚えている。耳の近くで発せられた温度も覚えている。でも、言葉が出てこなかった。あれほど何度も反芻したはずの言葉が、どこかへ行ってしまった。

 澪は筆を置き、両手を膝の上に揃えた。

 売ったのだろうか。それとも、忘れたのだろうか。

 どちらにせよ、もうなかった。

  *

 二十日目の朝、澪は書き溜めた手紙を順番に読み返した。

 丁寧に折りたたんで、夫の形見の小箱に入れていた手紙は、もう二十枚になっていた。読むと、書いた瞬間よりも記憶が少し遠い気がした。書くことで、記憶は外に出て、澪の中にある分が減るのかもしれない。そんな馬鹿なことを考えながら、一枚ずつ丁寧にめくった。

 二十枚目の最後に差し掛かって、澪は手を止めた。

 十三枚目の手紙の真ん中に、小さな空白があった。「あの人は、」と書いて、次の言葉がない。名前を書こうとして、書けなかった痕跡だった。筆が一度触れて、止まったと思しき薄い染みが、空白の入り口に残っていた。

 澪は急いで記憶を探った。

 夫の名前。

 呼んでいたはずだ。毎日呼んでいたはずだ。寝起きに、夕餉の前に、急いでいるときに、何気なく。呼ばれるより先に自分が呼んでいたはずだ。なのに、喉の奥から出てこない。音が来ない。漢字の形が浮かばない。

 「——」

 澪は口を開いたが、音が出なかった。

 出ない、のではなかった。出すべき音が、もうそこになかった。

 しばらくの間、澪は膝の上の手紙を見つめたまま動けなかった。庭では雨上がりの小鳥が一羽、石畳をとんとんと歩いていた。澪はその音だけを聞いていた。小鳥はやがて飛び立ち、静寂だけが残った。

 夫の名前が、ない。

 売ったのか、忘れたのか、もうどちらでもよかった。ない、という事実だけが、澪の胸の底に静かに沈んでいった。石が水に落ちて沈むように。波紋だけが広がって、やがてそれも消えるように。

 澪は新しい紙を一枚引いた。

 二十一日目の手紙を書き始めた。震える手を抑えるように、一字一字ゆっくりと。

 「あなたの名前を忘れました。今日、気がつきました。でも、あなたの目の形は覚えています。少し垂れていて、疲れているときは右の目尻だけがさらに下がりました。まだそれは覚えています」

 書き終えて、澪は筆を置いた。

 涙が出なかった。出ないことが、何よりも恐ろしかった。

 百日後の満月夜まで、まだ七十九日ある。七十九枚の手紙の間に、澪はあと何を失うのだろう。それとも書くことで、何かを取り戻せるのだろうか。

 答えは出ず、夜だけが来た。

 港の方から潮の匂いが流れてきた。市場の匂いに少し似ていた。〈無名〉の羽織の裾に漂っていた、あの夜の匂いに。澪は目を閉じた。

 名前のない夫の輪郭が、暗闇の中でかすかに揺れていた。

真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人

16

百日間の手紙

藍田 夜子

2026-05-29

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