港に秋が来ると、潮の匂いが変わる。
夏の塩辛さが薄れ、何か腐りかけたものと何か新しく生まれようとするものとが入り混じった、言いようのない気配が波間に漂い始める。澪はその匂いを、毎年この時期になると夫のことを思い出すきっかけにしていた。——思い出す、と言えれば、まだよかった。
縁側に腰を下ろして、澪は両手を膝の上に置いたまま庭を眺めていた。薄曇りの空。柘榴の木が一本、実をつけたまま風に揺れている。夫が植えた木だ。それだけは知っている。しかし夫が何と言いながら苗を植えたのか、どんな顔をしていたのか、その日の光がどの角度から差していたのか——それらはもう、澪の記憶の中には存在しない。
売った。自分で売ったのだ。
継ぎ接ぎ市場で、少しずつ、少しずつ。
最初は些細なことだった。夫の声が思い出せなくなることと引き換えに、重い病が癒えた。次に夫の笑い方を手放して、老いた母の借金が消えた。そのたびに澪は自分に言い聞かせた——生きなければならない、だから仕方がない、と。しかし今となっては、何のために生きているのかを問われると、答えに詰まる。
柘榴の実が一つ、音もなく落ちた。
澪は立ち上がり、それを拾った。割れた赤い実の中から種が覗いている。夫はこの実が好きだったか、嫌いだったか。——わからない。その「わからなさ」が、澪の胸の中で静かに膿んでいた。
次の市場は、百日後だという。
無名があの夜、市場の帳が閉じる間際に告げた言葉を、澪は何度も反芻していた。百日。長いようで、短い。その間に澪にできることは何か。記憶を取り戻す方法を探すことか。それとも、今あるわずかな記憶だけで生きていくことを学ぶことか。
答えは出なかった。ただ柘榴を両手に持ったまま、澪は秋の庭に立ち続けた。
◇
千斗は港の石畳の上で、鉛筆を走らせていた。
手帳の頁は、もうほとんど余白がない。文字と図と、記号のようなものが隙間なく詰め込まれている。市場の構造、取引の形式、訪問者たちの名と事情。百年に一度という周期の意味。そして最も気になること——市場はなぜ、今回に限って監査官を呼んだのか。
声を失ったあの日から、千斗にとって書くことは呼吸と同じになった。言葉を声に乗せられない代わりに、紙の上だけに真実を積み上げてきた。だから彼の手帳は、嘘をつかない。
白榊糸子。
名前を書いて、千斗は少し手を止めた。
老婆の目が思い出される。細く、底が見えず、しかし奇妙なほど澄んでいた。「監査官」と名乗ったが、千斗が調べた限り、そのような役職が市場に正式に存在するという記録はない。誰かが作り上げた肩書か、あるいは本当に市場の外側——この世の側に属する何らかの機構が動いているのか。
千斗は手話で独り言を言う癖がある。声が出ないので、指と手首と肩が勝手に動く。今も右手が小さく動いて、「嘘」という形を作った。
糸子が市場を封鎖しようとしているのは確かだ。しかしその動機がわからない。取引によって誰かが不当に傷ついているから、という正義の話なのか。それとも別の何かを守るため、あるいは奪うための口実なのか。
波が石畳を舐めて、引いていく。
千斗は顔を上げて遠くの水平線を見た。声のない世界で生きることに、今はもう慣れた。慣れたが、時々——市場の賑わいの中で誰かが笑い声を上げる瞬間など——喉の奥がひりつく。自分が手放したものの重さを、今更のように確認してしまう。
それでも病は消えた。生きている。
だから調べ続ける。市場の本当の姿を。糸子の本当の目的を。そして、もし市場が誰かによって不当に閉ざされようとしているなら——それを止める方法を。
手帳を閉じて、千斗は立ち上がった。風が強くなってきた。嵐の前の、あの独特の息吹。
◇
黄仁は市の外れの小屋で、火を焚いていた。
薬師として生きてきた長い年月の中で、黄仁は多くのものを学んだ。草の煎じ方、骨の繋ぎ方、熱を冷ます石の置き場所。しかしどれほど腕を磨いても、救えない命があった。それが黄仁を市場へ向かわせた理由だった——と、今回のあらすじには書かれているはずだ。
いや、違う。黄仁は自嘲気味に息をついた。
救えなかった命のことは、とうに諦めている。人は死ぬ。薬師にできることには限りがある。それはわかっている。では何のために市場に来たのか。答えは簡単で、惨めで、しかし正直なことだった——自分が手放してしまった「確信」を、取り戻したかった。
かつて黄仁には、治せるという確信があった。根拠のない自信ではなく、長年の経験と勘とが結晶した、揺るぎない手応え。それをいつの頃からか失った。患者の顔を見ても、脈を取っても、何か薄い膜を一枚挟んだような感覚が拭えない。市場でそれを売ったわけではない——ただ、歳月の中で磨耗して、消えた。
それでも市場には、きっと誰かが「確信」を売り渡しているはずだ。黄仁はそう踏んでいた。
火が小さくなる。黄仁は薪を一本加えた。
次の市場まで、百日。その間に診るべき患者がいる。看取らねばならない老人がいる。生まれてくる子どもがいる。黄仁は薬師だ。市場のことを考えながらでも、手は動かせる。指先は嘘をつかない。
ただ——確信だけがない。
それでも動く。動き続ける。それが黄仁の欠落との折り合いの付け方だった。
◇
白榊糸子が筆を取ったのは、満月から三日後のことだった。
薄暗い部屋の中で、老婆は文机に向かっていた。蝋燭の灯が一本。その光の中で、糸子の指はゆっくりと、しかし確実に動いていた。
書いているのは名前だ。
澪。千斗。黄仁。そして——無名。
四つの名前を書き終えて、糸子は筆を置いた。墨の匂いが部屋に満ちる。老婆は目を細め、書かれた文字を眺めた。その表情に感情はない。ただ、仕事をしている者の顔があるだけだ。
市場の封鎖は、糸子の個人的な目的ではない。
糸子はそう信じていた。あるいは、そう信じることにしていた。
取引によって傷ついた者がいる。欠落を埋めようとして、より大きな穴を開けてしまった者がいる。市場は百年に一度しか開かないが、その傷は百年をかけて少しずつ人の世に滲み出す。糸子が見てきたのは、そういう傷の痕だった。だから封鎖が必要だ——それが糸子の論理だった。
しかし。
老婆は蝋燭の炎を見つめた。
無名、と書かれた文字の上に、指先をそっと置く。
「あなたはまだ、あそこにいるのですね」
独り言は、誰にも届かない。ただ蝋燭が小さく揺れた。
糸子の計画は、次の市場が開くまでに完成させなければならない。封鎖のための手続きは複雑で、必要な「素材」も一つではない。しかし最も肝心なものは、もう手の届くところにある。糸子は長い時間をかけて、それを集めてきた。
あと百日。
老婆は立ち上がり、窓の外の夜を見た。月は既に傾いている。港の方から潮の音が聞こえる。満月の残り香が、まだ空気の中に薄く漂っていた。
「手放す前に、聞かせてもらいましょうか」
糸子の言葉は低く、静かで、しかし奇妙な温度を持っていた。憎しみでも慈悲でもない。長い年月を経た者だけが持つ、乾いた覚悟の色。
蝋燭が消えた。
部屋の中に闇が満ち、四つの名前は見えなくなった。しかし墨は乾いて、紙の上に刻まれたまま残り続ける。百日後の市場で何が起きるかを、まだ誰も知らない。ただ三人の欠落と一人の老婆の計画と、名前のない商人の百年越しの問いとが、見えない糸で少しずつ引き寄せられていく。
港の夜が深まる。潮が満ちて、また引いていく。
次の満月まで、百日。