港の夜は、いつも腐ったものの匂いがした。

 潮と魚と、どこかで焦がした油。それに混じって、もっと古いもの――人間が長年かけて積み上げてきた欲と悲しみが、石畳の隙間に滲みこんでいる。千斗はそれを呼吸するたびに、自分の喉の奥にある空洞を思い出した。声を失ってから一年が経つ。肺の底まで空気を吸いこんでも、そこから先は何も生まれない。ただ沈黙が満ちるだけだ。

 彼は手帳を胸ポケットに押しこんで、路地の角に背を貼り付けた。

 三日前から追っていた男が、今夜ようやく姿を現した。

 体格は中程度。藍色の外套を羽織り、頭に深く笠をかぶっている。歳の頃は判断しにくいが、動きに無駄がない。港の混雑を泳ぐように歩き、一度も後ろを振り返らない。振り返らなくていいほど、己の安全を確信しているのだろう。

 千斗は距離を保ちながらついていった。

 男が向かったのは、港の外れにある廃倉庫だった。かつては漁具を保管していたらしく、外壁には錆び付いた碇の意匠が浮き彫りにされている。入口には新しい錠前がかかっていたが、男は鍵を使わずに、壁の特定の石を三度叩いた。すると重い音を立てて、引き戸が内側から開いた。

 千斗は倉庫の裏手に回り、壁の節穴を見つけた。目を当てると、中の様子が見えた。

 ランタンの黄色い光の中に、三人の人影があった。笠の男と、倉庫の主らしい太った老爺と、それから――思いがけない光景に、千斗は息を詰めた。

 子供だった。

 十歳にも満たないだろう少女が、床に膝をついて俯いている。その周囲に、薄い光の膜のようなものが漂っていた。千斗はそれを見た瞬間、市場のことを思い出した。記憶を取り出すとき、人から剥がれる光。あれによく似ていた。

 ただ、何かが違った。

 市場でのそれは、手放す者が自らの意志で差し出すものだ。だが今、少女の周りに漂う光は、引き剥がされているように見えた。少女は身を縮め、光は意志とは無関係に、男の手の中へ吸い寄せられていく。

 老爺が何事かを囁き、男が頷く。硬貨が渡される。

 千斗は歯を噛みしめた。

 取引が終わると、少女は立ち上がろうとして、一度膝を折った。ゆっくりと、壁を伝って立ち上がる。その表情には何もなかった。驚くほど何もない。笑いも泣きもしない、ただ空白のような顔。千斗には分かった。あの顔は、何かを失った後の顔だ。

 外套の男が去っていく前に、千斗は先回りして別の路地へ走った。

 倉庫の正面出口の陰に身を隠し、男が出てくるのを待つ。間もなく引き戸が開き、男が姿を現した。千斗は一歩踏み出て、男の行く手に立ちふさがった。

 男は微かに眉を上げたが、驚いた様子もなく千斗を見た。

「邪魔だよ、少年」

 低い声だった。市場の商人たちの声とは違う。あちらには不思議な温度があるが、この男の声には何もない。ただ平らで冷たい。

 千斗は手帳を取り出し、素早く書いた。

 ――今の取引は何ですか。

 男は手帳を一瞥して、鼻で笑った。

「市場外取引、という言葉を知っているか?」

 千斗は頷かずに、次の文字を書いた。

 ――あの子は自分の意志で売りましたか。

「親が売ったんだよ」

 男はあっさりと言った。まるでそれが当然であるように。

「子供の明るい記憶は高く売れる。親が貧しければ、そういうことも起きる。俺はただ需要と供給を結びつけているだけだ。市場と何が違う?」

 千斗は手帳に書いた。

 ――全てが違います。

「そうかね」

 男は千斗の横を通り過ぎようとした。千斗は腕を伸ばして行く手を遮った。男の目が細くなる。

「続きをやりたいなら、止めはしない。だが俺に触れるな。俺が持っているものが、お前の中に流れこむことになる」

 千斗は腕を引いた。男が言っていることの意味は分からなかったが、その目の色が、冗談ではないと告げていた。

「賢いな」

 男はそれだけ言って、闇の中へ消えていった。

 千斗はしばらくその場に立ち尽くしてから、倉庫へ引き返した。

 老爺はいなかった。しかし少女はまだいた。壁にもたれて座りこみ、膝を抱えている。千斗が近づくと、少女は顔を上げた。やはりその目には焦点がない。

 千斗は膝をついて、少女と目線を合わせた。手帳を開き、ゆっくりと書く。

 ――名前は?

 少女は首を横に振った。

 ――分からない?

 今度は頷いた。

 千斗の胸の奥で、何かが燃えた。静かだが確かな火が、腹の底に灯った。名前が分からない。それはつまり、名前にまつわる記憶が根こそぎ奪われたということだ。自己を繋ぎ止める最初の紐が、断ち切られた。

 千斗は少女の隣に腰を下ろし、手帳に描いた。港の絵。舟の絵。星の絵。少女はそれを見て、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。しかし届かない。水面の底に沈んだものを、手を伸ばしても掴めないように、その目は空を彷徨った。

 千斗は少女をその夜の宿に連れ帰り、大家の女房に頼んで世話を頼んだ。事情を説明するために紙を三枚使った。女房は眉をひそめたが、断らなかった。この港には、訳ありの子供が流れ着くことが珍しくなかった。

 自室に戻り、千斗は机に向かって、これまで集めた情報を広げた。

 市場外取引の噂を最初に耳にしたのは、二月前だ。港の居酒屋で、泥酔した船乗りが呟いた。「記憶を買い戻そうとしたら、市場じゃないところでも売っている奴がいると聞いた」。千斗はその言葉を書き留め、糸を手繰るように調べてきた。

 被害の報告は少なくとも六件。全員が自発的な取引ではなく、睡眠中や意識の薄れた状態での「採取」に近いものだった。子供、老人、病人。力の弱いものが狙われている。取引の対価は雀の涙ほどの銭か、あるいは全くゼロだ。

 そして今夜。千斗はあの男が持ち去った光を思い出した。あれはどこへ行くのか。誰かが買い取るのか。誰が、何のために、こんなものを欲する?

 千斗は一枚の紙に、これまでの調査で掴んだ名前や証言を書き並べた。その中の一つに視線が止まる。

 二月前に話を聞いた船乗りが、一つだけ具体的な言葉を漏らしていた。「依頼主は老婆だと聞いた。市場に顔が利く婆さんだ」。

 千斗はその文字を長く見つめた。

 市場に顔が利く老婆。

 脳裏に、あの冷ややかな笑顔が浮かぶ。白髪を結い上げ、監査官の印を帯に差した姿。白榊糸子。

 確証はない。あの船乗りの証言は酔いの混じった又聞きだ。「市場に顔が利く老婆」など、他にもいるかもしれない。

 だが千斗の内側で、燃えていた火がひときわ大きく揺れた。

 あの女は市場を封鎖しようとしている。取引を無効化しようとしている。その一方で、市場の外で記憶を売買させているとしたら。市場を潰して、自ら闇の流通を掌握しようとしているとしたら。

 それはあまりにも整合する。

 千斗は立ち上がり、窓を開けた。夜の潮風が部屋に入りこみ、散らばった紙を揺らした。港の向こうに月がある。まだ満月には遠い。市場が開くまで、時間はある。

 その時間で、もっと掴まなければならない。

 明日、あの男をもう一度追う。そして次は逃がさない。

 千斗は窓枠に手をかけ、月を見上げた。声のない夜に、言葉にならない決意が満ちていく。喉に手を当てると、何も震えない。それでも彼は、今だけは叫びたいと思った。あの少女の名前を取り戻してやりたいと。誰かがそれを守らなければ、市場も、市場の外も、欲しいものを欲しいように奪う者たちの庭になってしまうと。

 風が紙を一枚、床に落とした。

 そこには千斗が最初に書き留めた言葉が残っていた。

 「記憶を買い戻そうとした」。

 千斗はそれを拾い上げ、折りたたんで胸ポケットに仕舞った。澪のことを思い出した。あの人も毎日手紙を書いているはずだ。夫の記憶を繋ぎ止めるために。失った記憶は、誰にとっても等価ではない。ある人にとっては過去の痛みで、ある人にとっては今を生きるための根だ。

 それを断りもなく奪う者が、この夜の港にいる。

 千斗は机に戻り、新しい紙を広げた。

 書き始める。まだ見ぬ証拠を、まだ聞けぬ証言を求めるための、明日の作戦を。

真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人

17

千斗と記憶の密売人

藍田 夜子

2026-05-30

前の話
第17話 千斗と記憶の密売人 - 真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人 | 福神漬出版