三島光一郎が死んでいた。
扉を開けた瞬間に、透はそれを知った。知識として理解したのではなく、皮膚の内側から這い上がってくるような確信として。男の横たわる姿は、廊下の明かりを背に受けてひどく平らに見えた。人間というものは死ぬと薄くなる。誰かからそう聞いたことがあるような気がしたが、それが自分の記憶なのか他の誰かのものなのか、すでに判別がつかなかった。
後ろで誰かが息を呑む音がした。富樫礼子だろう。透は振り返らなかった。
一歩、また一歩。床板が軋む。三島の部屋は暖房が切れているらしく、外の嵐の寒気がじわじわと床板の隙間から染み出てくるような冷たさだった。透は膝をついた。三島の顔は天井を向いており、その目は閉じられていた。誰かが閉じてやったのか、それとも最後の瞬間に自ら閉じたのか。
手が、動いていた。
透は自分の意志でそうしているのかどうかわからないまま、三島の手首へと指を伸ばした。脈を確かめようとしたのかもしれない。あるいは単純に、本能がそうさせたのかもしれない。
触れた瞬間、世界が崩れた。
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霧だ、とまず思った。
いや、違う。これは霧積館の廊下だ。朝の光が窓ガラスを白く滲ませ、廊下の端まで靄が這っている。透はそこに立っていた。いや、立っているのは透ではない。これは三島だ。三島光一郎の目で見た霧積館の朝。足の裏に伝わる床の感触、鼻腔をくすぐる消毒液の匂い、そして奥歯の付け根にこびりついた苦い何か——薬の後味か、それとも恐怖の味か。
場面が変わる。
食堂だった。椅子が引きずられる音。誰かの笑い声。三島はテーブルの端に座り、コーヒーカップを両手で包んでいた。温かい。だがその温もりの向こうに、ずっと何かが引っかかっている。棘のように、喉の奥に刺さったまま抜けないもの。
また変わる。
夜だ。廊下を歩いている。三島の足音は忍び足で、それ自体が何かを語っていた。どこへ向かっているのか。透には判らなかった。ただ三島の心臓の鼓動だけが伝わってくる。速い。恐れている。何かを見てしまったのか、それとも何かを知ってしまったのか。
声が聞こえた。
低い男の声だった。輪郭がなく、霧の中で溶けるように響く。言葉は聞き取れない。だが三島の体は——透の体は——その声に向かって硬直した。恐怖ではない。もっと複雑なもの。驚愕と、安堵と、裏切られたという感覚が一緒くたに凝縮されて、胃の底に落ちていく。
また変わる。
窓だ。三島は窓の外を見ている。霧の向こうに何かを探すように。北アルプスの夜は深く、霧は光を喰い、星さえ見えない。それでも三島は見ていた。逃げ場を探すように。あるいは、ここにいることを誰かに知らせようとするように。
そして最後の断片が来た。
室内だ。三島の部屋だと透は直感した。床に座っている。膝を抱えている。窓の外では嵐が吠え、雨が叩きつけている。三島の手は震えていた。震えながら、何かを書いていた。紙の上に走る鉛筆の音だけが、嵐の中で異様に鮮明に聞こえた。
何を書いていたのか、透には見えなかった。
だが最後の一瞬、三島は顔を上げた。
その顔に浮かんでいたのは恐怖ではなかった。怒りでもなかった。透が思いがけず感じ取ったのは、奇妙なほど静かな、ほとんど凪いだとも言えるような——諦念に似た何かだった。それはしかし純粋な絶望ではなく、何かを賭けた人間の顔に近かった。
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透は床に倒れていた。
頬に冷たい木の感触。自分の呼吸が荒いことに気づくのに、数秒かかった。どこかで誰かが叫んでいる。富樫礼子の声だ。透の名を呼んでいる。
「瀬川さん、瀬川さん、しっかりして——」
礼子の手が肩を掴んでいた。その体温が、底なし沼から引き上げる綱のように感じられた。透は何かに縋るようにその感覚を手繰り寄せ、意識を現実へと引き戻した。
ここは三島の部屋だ。
三島は死んでいる。
自分は今しがた、死んだ男の記憶の中に落ちていた。
「大丈夫ですか?顔色が——」
「大丈夫です」
声が掠れていた。自分の声ではないみたいだった。透はゆっくりと起き上がり、膝に手をついた。三島の体はまだそこにある。先ほどと変わらない姿勢で、天井を向いて。
彼は何かを知っていた。
その思いが、骨の内側から燃え上がるように確かだった。
「彼は」と透は言った。声に力が戻らない。それでも言わずにはいられなかった。「彼は、誰かを知っていた」
礼子が息を詰めた。
「誰かを、って——」
「三島さんは」透は三島の手から自分の指を引き剥がした。それだけの動作に、全身の力が要った。「ここで起きていたことを知っていた。あるいは、ここにいる誰かの秘密を。それが引き金になっている」
自分でもどこまで確信を持って言えているのか、判らなかった。三島の記憶は断片に過ぎない。霧の中で拾い上げた石つぶてのようなもので、全体の形を語るには足りなすぎる。だがその断片の一つ一つが、透の胸の内で脈打っていた。三島の恐怖と、三島の最後の静けさが。
礼子は手帳を取り出した。いつの間にか、その手は震えていた。
「記録する」と彼女は静かに言った。声が揺れていたが、鉛筆を持つ手だけは意志的に動かした。「あなたが今感じたこと、見たこと。全部、話して」
透は目を閉じた。三島の記憶の残滓が、まだ脳の縁で揺れている。その低い男の声。あの棘のような感覚。凪いだ顔。
「まだ整理できていません」と透は言った。「でも——」
扉の方で気配がした。
透と礼子が同時に振り返ると、廊下の暗がりに夏目霞が立っていた。いつからそこにいたのか判らない。霞はいつも気づいた時にはそこにいる。白い寝間着姿で、表情のない顔で、ただ透を見ていた。
その目の奥に、透は何かを読もうとした。驚き、ではない。悲しみでも、おそらくない。あるいは——すでに知っていた人間の顔、だろうか。
「霞さん」と透は言った。
霞は答えなかった。ただ、透の目から自分の目を逸らさないまま、ひとつ息をついた。
「あなたは危険ね」
それは第4話で彼女が囁いた言葉と、まったく同じだった。
透の心臓が、奇妙な形で縮んだ。あの時、霞は何を感じ取っていたのか。透が三島の記憶を無意識に引き寄せ始めていたことを、霞はすでに知っていたのか。
「霞さん、あなたは——」
「今夜は話せない」霞は静かに遮った。「でもあなたが見たものは、本当のことよ。三島さんは知っていた。それだけは確か」
それだけ言うと、霞は踵を返した。廊下の闇に白い背中が消えていく。
透は立ち上がろうとして、足がまだ震えていることに気づいた。三島の記憶が体の隅々まで染みていた。他人の最期の恐怖を引き受けるというのはこういうことか、と透は思った。体がそれを覚えてしまう。自分のものとして。
礼子が手帳に何かを書き留めている。その鉛筆の音が、三島の記憶の中で聞いた音と重なって、透は一瞬目眩がした。
三島は書いていた。最後に、何かを書いていた。
それはどこにある。
透は三島の部屋を見回した。嵐の音が窓を揺らしている。台風はまだ去っていない。そして霧積館は孤絶したまま、夜の中に浮かんでいる。
十三人の誰かが秘密を持っている。あるいは、十三人の全員が。
透は息を吸った。三島の最後の凪いだ顔を、もう一度心の中で見た。
賭けた人間の顔、だと思った。
三島光一郎は何かを賭けていた。その賭けの代価が、あの部屋での死だったとするならば——彼が賭けたものは、いったいどこへ行ったのか。