霧は、まだそこにあった。

 窓の外に広がる乳白の闇は、朝になっても晴れることなく、霧積館の石造りの壁を濡らしつづけていた。食堂に集められた者たちの顔は、その霧を映しでもしたかのように一様に青ざめ、誰ひとり言葉を発しようとしなかった。

 透は部屋の隅に立ち、自分の手のひらをじっと見つめていた。三島光一郎の遺体に触れたあの瞬間から、その手は自分のものでなくなったような気がしていた。熱でもあるのではないかと思うほど、掌が内側から疼いている。いや、熱ではない。これは三島の何かが、まだそこに残っているのだ。

 恐怖。諦念。そして、もっと深いところに沈んでいる何か——誰かの秘密を知ったことへの、罪悪感にも似た重さ。

 それが自分の感情なのか、三島から受け取ったものなのか、もはや透には判別できなかった。

 碓氷院長が立ち上がったのは、時計が九時を回った頃だった。

 老医師は食堂の上座に置かれた椅子から、誰に手も借りず静かに腰を上げた。年齢を感じさせない、しかし軽くもない動作だった。白衣の胸元に深いしわが刻まれていた。透はその皺が、今日だけで増えたような気がした。

「皆さんに申し上げなければならないことがあります」

 院長の声は穏やかだった。それがかえって、部屋の空気を引き絞った。

「三島光一郎くんが亡くなりました。状況は——複雑です。外部からの侵入者がいた形跡はなく、昨夜、この館の外へ誰かが出たという証拠もない。すなわち」

 一拍の沈黙。

「この場にいる全員が、容疑者となります」

 誰かが椅子を引く音がした。短い悲鳴にも似た息をのむ声が、複数方向から聞こえた。透は視線を上げ、十二人の顔を順番に見回した——食堂に集まっているのは自分を含めて十三人。霧積館に滞在するすべての者たちだ。

 院長が続けた。

「警察には連絡を試みています。しかし皆さんもご存知のとおり、この天候では道路は使えない。電話も昨夜から不通のままです。外部の助けが来るまでの間、われわれは自力で事態に対処しなければならない」

「自力で、とは」

 口を開いたのは富樫礼子だった。彼女は食堂の端、小さな机のそばに座っており、その机の上には分厚い革表紙の帳面が置かれていた。記録係の帳面——透はそれを何度か見たことがあった。礼子がすべての出来事を書き留めておく、霧積館の記憶そのものとも言うべき一冊だ。

「記録を取ります」と礼子は言った。誰かに尋ねたのではなく、自分自身への宣言のように。「三島さんの死について、全員のアリバイと証言を。それが私の役目でしょう、院長」

 碓氷院長はゆっくりとうなずいた。

「頼みます、富樫さん」

 礼子は帳面を開いた。万年筆のキャップを外す金属的な音が、静まり返った食堂に小さく響いた。その音がどこか、裁判所の開廷を告げる木槌のように聞こえた——少なくとも透にはそう感じられた。

「昨夜、午後九時以降の行動を、順番にお聞きします」

 証言が始まった。

 三号室の住人である壮年の男は、九時には就寝していたと言った。七号室の若い女性は、深夜まで本を読んでいたが廊下には出なかったと答えた。それぞれの言葉を礼子は書き留め、次を促し、また書き留めた。表情は変わらない。ただ手だけが動いている。透は礼子のその姿を見ながら、この女性の強さの正体が少しわかった気がした。書くことが、彼女の盾なのだ。事実を記録することで、恐怖から距離を置いている。

 透の番が来た。

「瀬川さん」

「……僕は、廊下を歩いていました。眠れなかったので」と透は言った。「それで、三島さんの部屋の前を通ったとき、ドアが少し開いていて——」

「そこで発見したわけですね」

「はい」

 礼子の万年筆が走る。透は自分の証言が黒い文字として定着していくのを、奇妙な距離感で眺めた。これが記録されることで、自分はこの事件の一部になる。いや、すでになっている。三島の記憶を吸い込んだあの瞬間から、もう戻れないところへ来ているのだ。

 証言が一巡したあと、透は静かに決意を固めた。

 三島の記憶はまだ自分の中にある。断片的で、すべてが鮮明なわけではない。しかし確かにそこにある。誰かの秘密を知ることへの恐怖、そしてそれを抱えたまま死に向かうしかなかった三島の絶望——それを受け取った自分には、それを使う義務があるのではないか。

 三島は何を知っていたのか。誰の秘密を、どこで知ったのか。

 それを辿ることが、透にできる唯一のことだと思った。

 食堂に院長の「解散」の声が響いた。人々が動き出し、透も椅子から立ち上がった。廊下へ向かおうとしたとき、視線を感じた。

 振り返ると、夏目霞がいた。

 霞は食堂のなかで最も窓に近い席に座ったまま、動いていなかった。霧色の光が横から差して、彼女の横顔を薄く照らしている。表情は、いつものように乏しかった。しかし目だけが、透を捉えていた。

 透は思わず足を止めた。

 彼女の目が、何かを言っていた。言葉ではない。唇も動いていない。しかしその黒い瞳の奥に、透に向けられた明確な意志があった。

 霞は、ゆっくりと首を横に振った。

 一度だけ。静かに、しかし確かに。

 透は息をのんだ。

 それはどういう意味なのか。三島の記憶を辿るな、ということか。独自に動くなという警告か。それとも——そもそも、透が感じ取ったあの記憶の断片が、信用できないということか。

 問いかけようとして、透は口を開きかけた。しかし霞はすでに視線を外し、窓の外の霧を見ていた。まるでそちらに本当の答えがあるとでも言うように。

 透は廊下に出た。

 冷えた石畳の床が、靴底から体温を奪っていく。霧積館は冬でも夏でも、どこか底冷えのする場所だった。それが好きだという者もいれば、慣れられないという者もいた。透は後者だったが、今日ばかりはその冷たさが、混濁しかけた意識を辛うじて現実につなぎとめていた。

 なぜ霞は首を振ったのか。

 彼女は三島の記憶について知っていると、昨夜すでに示唆していた。透の能力も見抜いていた。にもかかわらず、その記憶を追うことを止めようとしている。

 それはつまり——記憶を追うことが、危険だからなのか。

 それとも、追う必要がないからなのか。

 透は廊下の突き当たりで立ち止まり、三島の部屋の方向を見た。今頃は院長が鍵をかけているだろう。証拠を保全するために。

 しかし三島の記憶は、鍵のかかった部屋の外にある。透の内側にある。それは誰にも奪えない——道上蛍を除いては。

 そのとき初めて透は、蛍のことを思った。

 「記憶を消す」少年。昨夜の証言の場に、彼はいたか。食堂に集まった十三人の顔を思い返した。いた、はずだ。部屋の隅に、誰とも目を合わせずに立っていた。

 しかしその表情を、透は思い出せなかった。

 胸の奥が、かすかに疼いた。

 三島の記憶の、最も深いところに沈んでいた何かが、今、その名前と結びつこうとしていた。

 透は壁に手をついた。廊下の冷たさが掌に伝わってくる。自分の手だ。今は確かに、自分の手だ。

 ——でも、いつまで。

 霞が首を振った理由を、透はまだ知らない。そして今ここで決意する。知らなければならないと。三島が抱えたまま死んだ秘密の重さを、自分は確かに受け取ってしまったのだから。

 受け取った者には、それを開く責任がある。

 怖くても。

 たとえ、それが自分自身を壊すものだとしても。

 廊下の先で、誰かの足音がした。近づいてくるのではなく、遠ざかっていく足音だった。透はその方向に目を向けたが、角を曲がるその人影が誰だったのか、霧のような廊下の薄暗さの中では確認できなかった。

霧の中の十四番目の証人

15

十三人の容疑者

朧月 汐音

2026-05-28

前の話
第15話 十三人の容疑者 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版