嵐は、深夜を過ぎても衰えなかった。

 透は目を閉じたまま、天井板を打つ雨音を聞いていた。眠れなかった。いや、眠ることが怖かった、というほうが正確かもしれない。瞼を下ろすたびに、昼間の声が蘇った。廊下の角で、三島の部屋のドア越しに耳に届いた、あの低い二つの声。

 *記録に残さない。*

 それは誰の言葉だったのか。碓氷院長のものであることは確かだった。しかし、もう一方の声は、透の混線した意識の中で輪郭を結ばないまま揺れ続けていた。三島の記憶から染み出したものか、それとも透自身が昼間に聞いたものか。もはや区別する術がなかった。記憶というものが川であるとすれば、透の内側では複数の川が合流し、どの水がどの源流から来たのかを見分けることは、もはや不可能に近かった。

 窓の桟が激しく鳴った。北アルプスの山肌を這い上がってきた風が、霧積館全体を包む霧を引き千切るように吹き荒れている。それでも霧は消えなかった。この山に棲みついた霧は、嵐の夜にも死なない。ただ形を変えて、窓ガラスの向こうで激しく渦を巻いた。

 透は布団の中で膝を抱えた。枕の冷たさが、頬に当たるたびに少しだけ意識を現実に引き戻した。ここは霧積館だ。自分は瀬川透だ。昭和の終わりの、台風の夜だ。

 そう繰り返しながら、いつしか浅い眠りの縁に立っていた。

 悲鳴が、聞こえた。

 一声だけだった。長くなかった。されど短すぎることもなく、誰かの喉から真実の恐怖が絞り出された声であることだけは、その長さと音色が如実に物語っていた。女性の声だった。しかし誰のものか、すぐには分からなかった。透は跳ね起きた。布団が床に落ちた。素足のまま扉へと駆け寄り、廊下に飛び出した。

 廊下は暗かった。非常灯の橙色だけが壁の低い位置を照らし、天井近くは闇に沈んでいた。台風の影響で電力が不安定になっているのだろう、頭上の蛍光灯が死んでいた。霧積館の廊下は長い。その廊下の突き当たり、十三番目の部屋の前に、人影が固まっていた。

 透は裸足で走った。床板の冷たさが足の裏を刺した。近づくにつれ、人影の数が増えていることが分かった。パジャマ姿の者、寝巻きに上着を引っかけた者、そして——礼子さんが、両手で口を覆って、その扉の前に立っていた。

 「礼子さん」

 透が声をかけると、礼子は振り返った。その顔が非常灯の橙色の中で、ひどく青白く見えた。記録係として感情を抑制することに慣れた彼女が、今は隠しようもなく揺れていた。

 「鍵が、かかっているんです」礼子は囁くように言った。「内側から。三島さんが、返事をしない」

 扉を見た。木製の古い扉だった。鍵穴の上の小さな金属板が、施錠を示していた。透は扉の表面に手を当てた。冷たかった。木の奥から何も伝わってこない。普通ならば、触れた物から微かな記憶の残滓が流れ込んでくる透には、それが逆に不吉だった。空白は、時として言葉より多くを語る。

 「どいてください」

 低い声が背後から届いた。振り返ると、碓氷院長が立っていた。白い寝間着の上に診察用の上着を羽織り、乱れた白髪のまま、しかし目だけが異様に醒めていた。院長はゆっくりと歩み寄り、扉の前に立った。

 「三島くん」静かに呼びかけた。「分かるか。碓氷だ。扉を開けなさい」

 応答はなかった。風の音だけが、廊下全体を震わせた。

 「開けます」院長は誰に言うでもなく告げ、腰に提げていた鍵束を取り出した。マスターキーだった。施錠を外し、扉を押し開けた。

 部屋の中も暗かった。非常灯が、窓際のベッドを淡く照らしていた。

 そこに三島光一郎が、横たわっていた。

 透には、最初それが眠っているように見えた。仰向けに、両腕を体の側面に沿わせ、目を閉じて。しかし院長が一歩踏み込み、脈を取った瞬間の、その沈黙の質が、部屋全体を変えた。院長は顔を上げなかった。ただ低く言った。

 「……逝っている」

 誰かが廊下で息を呑んだ。それから長い静寂があった。嵐の音だけが続いた。

 礼子は手帳を取り出していた。震える手で、時刻を書き留めようとしていた。その仕草が、透には痛ましかった。記録することが彼女にとって世界との接続方法であり、この夜の恐怖の中でも、彼女は手を止めることができなかった。

 廊下に集まった顔を、透は一人一人確かめた。道上蛍が、壁に背をつけて立っていた。無表情のまま、しかし透は気づいた——蛍の手が、わずかに握られていることに。こぶしを作るように。何かに耐えるように。

 夏目霞は、扉の外に立っていた。部屋の中を見ようとしなかった。その横顔は石のように動かなかったが、一点だけ——彼女の視線は、碓氷院長の背中に固定されていた。院長が立ち上がり振り返っても、霞の目は微動だにしなかった。まるで、今この瞬間から院長を観察することを決めたかのように。

 「通報できないのか」誰かが言った。

 「電話線が切れている」礼子が答えた。「台風が来る前から、不安定でした。今は完全に」

 「無線は」

 「予備の無線機は……院長室に。でも山の向こうには届かない。この嵐では」

 透は窓の外を見た。漆黒だった。霧と雨と風が混然となって、世界の境界を消していた。霧積館は今夜、完全に孤立していた。朝になれば変わるかもしれない。台風が過ぎれば。しかし朝までは、この建物の中だけが世界のすべてだった。

 「部屋には入らないでください」院長が言った。「全員、今夜は各自の部屋に戻りなさい。朝になったら話し合いの場を設けます」

 誰も動かなかった。

 透は、三島の横顔をもう一度見た。穏やかな顔だった。苦悶の跡がなかった。争った痕跡も、暴力の形跡も、透の目には見えなかった。ただ、眠るように死んでいた。

 *赦されたかった。*

 突然、その言葉が透の頭の中に浮かんだ。自分の言葉ではなかった。三島の記憶から染み出してきたものか、あるいは今この瞬間に三島の残滓が透に触れたのかは分からなかった。しかし言葉はそこにあった。輪郭の定かな、切実な四文字として。

 透は扉の縁に手を当てた。今度は、かすかな何かが流れ込んできた。木の記憶ではなく——この扉に最後に触れた者の、熱の残滓が。

 内側から鍵をかけた、その手の温度が。

 透は顔を上げた。廊下の全員の顔が、非常灯の橙色の中で影を落としていた。院長、礼子、霞、蛍、そして他の患者たち。十三人の顔が、そこにあった。

 密室だった。内側から施錠された部屋で、三島光一郎は死んでいた。外は嵐だった。証人はここにいる全員だった。

 そして透は今、扉を通じて感じた微かな熱の記憶を、自分の胸の奥に仕舞い込んだ。誰にも言わないまま。

 この手の温度が、誰のものかを確かめるまでは。

霧の中の十四番目の証人

13

真夜中の悲鳴

朧月 汐音

2026-05-26

前の話
第13話 真夜中の悲鳴 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版