夕刻から風が変わった。

 霧積館を常に満たしている霧は、いつもならば静かに、まるで呼吸するように漂うものだった。それが今宵は違う。廊下の端から端まで吹き抜ける気流に煽られ、霧の粒子が小さな渦を描いて窓硝子に叩きつける。遠い尾根のどこかで、風が唸っていた。

 透は夕食の膳を前に、箸を止めた。

 ダイニングの天井に吊るされた電球が、風の圧で僅かに揺れる。その度に影が伸び縮みして、十数人分の顔をめまぐるしく塗り替えていく。普段は静かに食事をすませる患者たちも、今夜は誰もが落ち着かない様子で、椅子の脚を床に擦ったり、水のグラスを無意味に持ち替えたりしていた。

「台風が来るそうだ」

 向かいの席で、白髪の男――中條という、鏡を見るたびに三日前の自分の顔しか映らないと言う老人が、誰ともなしに呟いた。

「山越えはしないだろうが、縁は通る」

 隣に座っていた若い女、笹川が口をとがらせた。

「縁でも十分怖いわ。去年の台風のとき、屋根板が一枚剥がれたじゃないですか。あのとき、あたし三日間ほとんど眠れなかった」

「どうせ眠れないんでしょ、あなたは」

 ぼそりとした声。笹川と二席離れて座る男、丸山だった。細い目を伏せたまま、汁物を啜っている。

「何ですって」

「眠れない眠れないって、いつも言ってる。台風のせいじゃなくて、あなたの症状でしょ。台風を言い訳にしないでほしい。怖いんならそう言えばいい」

 笹川の顔が朱に染まった。

「言い訳なんてしていない。あなたにわたしの何がわかるの」

「僕には何もわからないよ」丸山は静かに箸を置いた。「でも僕の言いたいことくらい、理解できるでしょ。この館の中には、あなたより深刻な問題を抱えた人間がたくさんいる。そこに台風で怖いなんて話を持ち込まれると、気が散って困る」

 透は息を詰めた。丸山の言葉は、喉の奥の棘のように、棘の存在を意識させないまま人を傷つける種類のものだった。笹川がテーブルに拳を置き、立ち上がりかけたとき、

「やめなさい」

 霞の声が室内に落ちた。

 彼女は窓際の席で、どこか遠くを見ていた。表情はいつものように静かで、感情の波一つない。しかしその声には、水底の岩が持つような、動かぬ重さがあった。

「嵐の前に傷つけ合っても、誰も得をしない」

 丸山が口を開きかけて、閉じた。笹川がゆっくりと椅子に腰を下ろした。ダイニング全体が、ひとつの大きな息を吐いたように静まる。

 透はそっと霞のほうを見た。彼女は依然として窓の外に目を向けていた。硝子の向こうは真っ暗で、何も見えない。いや、だから見ているのかもしれないと透は思った。霞は、何もない暗闇の中にこそ、何かを見つけようとする人間だった。

 その夜、院長室の前を通ったとき、受付に置いてあるトランシーバーが沈黙していることに透は気づいた。

 霧積館の外界との連絡は、電話回線と、無線のトランシーバーという二つの経路に限られていた。電話は数年前から繋がったり途絶えたりを繰り返しており、信頼性は低い。実質的な命綱はトランシーバーだったが、その電源ランプが今夜は点いていなかった。

 通信、途絶。

 廊下に立ったまま、透はその事実を飲み込んだ。山が閉じる。それはこの館の外側にある世界が、完全に遠ざかるということを意味していた。

 自分の部屋へ戻ろうとして、足が止まった。

 三島の部屋は、透の部屋から廊下を二つ曲がった突き当たりにある。荷物はまだそのままだと聞いていた。誰も片付けに入れないでいる、と富樫礼子が言っていた。理由は問わなかったが、彼女の顔には言い淀む色があった。

 なぜ今夜、そちらへ向かおうとしているのか、透には説明できない。三島の部屋の前を通ることに、意味を見出しているわけでも、何かを確かめようとしているわけでもなかった。ただ、足が向いていた。それが自分の意志なのか、透の内側に堆積しつつある他者の記憶が引き寄せているのか、もはや区別がつかない。

 廊下は暗かった。夜間は照明を最小限に落とす決まりがあり、足元の誘導灯だけが薄橙色に光っている。その光の帯を踏みながら歩くと、まるで自分が誰かの夢の中を渡っているような気分になった。

 三島の部屋の前まで来たとき、透は立ち止まった。

 声がした。

 低い声だった。男の声。一人ではない。二人の声が、扉越しに微かに混じり合っている。

 透は息を止めた。

 一方は聞き覚えがあった。院長の碓氷玄の声だ。穏やかで、丁寧で、しかし今夜はいつもと違う張りを含んでいる。もう一方の声は、くぐもっていて、判別しにくい。しかし確かに二人分の声がある。

 三島の部屋で、誰かが碓氷と話している。

 透は壁に背を預けた。鼓動が速くなるのを感じながら、声の断片を聞き取ろうとする。しかし台風が近づく風の音が低く鳴り響き、言葉の輪郭がぼやける。聞こえるのは断片だけだ。

 ――あの頃のことを、もう一度。

 碓氷の声が、そう言ったように聞こえた。

 もう一方の声が何かを答える。感情の起伏が乏しく、しかし切迫したものが含まれている。透はどうしても声の主を特定できなかった。

 ――記録には、残さない方がいい。

 そう聞こえた。あるいは聞こえたと思った。

 透は自分の聴覚を信じきれなくなっていた。自分が「今聞いている音」と、三島の記憶の中に刻まれた「かつて聞かれた音」が、混線することがある。それは先週から始まった症状で、霞に話すと、「時間軸の識別が乱れている」と彼女は静かに言った。つまり今この瞬間、透が廊下に立って聞いているのは、本当に今夜の声なのか。それとも三島がかつてどこかで耳にした声を、透の脳が再生しているのか。

 判断できない。

 扉に手を伸ばしかけて、透は思い留まった。

 ノックする権利が自分にあるとは思えなかった。いや、権利の問題ではない。もし今この扉を開けたら、何かが取り返しのつかない形で変わる予感があった。根拠のない、しかし確かな胸騒ぎ。

 透はゆっくりと手を引いた。

 廊下の暗がりを、また歩き始める。自分の部屋に辿り着いたとき、風の音がひときわ強くなった。窓が軋む。山全体が、何かを飲み込もうとするように収縮しているように感じた。

 毛布を被って横たわったが、眠れなかった。

 三島。碓氷。あの頃。記録に残さない。

 言葉の破片が、頭の中で形を変えながら漂っている。それが自分の思考なのか、三島の記憶の残滓なのか、透にはもうわからない。わからないまま、嵐の夜が深くなっていく。

 目を閉じると、霧の中に誰かが立っていた。顔は見えない。ただ輪郭だけがそこにある。その人物は透に向かって何かを言っているようだったが、風の音に掻き消されて聞こえない。

 聞こえない。

 聞こえないが、口が動いている。

 透はその口の形を、必死に読もうとした。

霧の中の十四番目の証人

12

嵐前夜

朧月 汐音

2026-05-25

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第12話 嵐前夜 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版