廃園に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
外の世界には、乾いた風と埃の匂いがあった。追跡者たちの靴音と、彼らが吐く荒い息と、糸子自身が必死に抑え込んでいた恐怖の気配が混ざり合って、世界全体がざらついていた。けれどもここは違う。庭園を覆うように垂れ下がった記憶布の端々が、夕暮れの光を散乱させながらゆるゆると揺れており、その一枚一枚に染み込んだ古い時間が、空気そのものを柔らかく押し圧していた。埃ではなく、積もった記憶の重さ。朽ちかけた薔薇の蔓が石壁を覆い、花びらの代わりに色褪せた布の断片が絡みついている。踏み出した足の下で、土ではなく幾重にも重なった布の層がわずかに沈んだ。
糸子は息を整えながら、庭の奥へと目を向けた。
いた。
泉の跡らしき石組みの縁に、青年が腰かけていた。
一目で常人ではないとわかった。全身に、布切れが縫い付けられていた。麻布、絹、粗い木綿、光沢のある薄布、毛羽立った厚地の切れ端。色も素材も大きさもばらばらな布が、首筋から指先まで幾重にも縫い重ねられ、青年の輪郭そのものを形成していた。縫い目は几帳面なものもあれば、急いで施したように粗いものもある。服と皮膚の境目がどこなのか、糸子には判然としなかった。月並みな言い方をするなら、彼はまるでそれ自体が縫い物のようだった。いや、正確には違う。縫い物が、かろうじて人の形を取っているのだ。
青年はこちらを見ていた。視線に体温がなかった。
「追い払う前に訊いておこう」
口を開くと、声は低く、乾いていた。感情を削ぎ落とした、あるいは最初から感情の置き場所を持たないような声。
「お前は誰だ」
糸子は少し間を置いた。これが問題だった。いつも問題になる問いだった。
「わからない」と答えると、青年の眼が僅かに動いた。嘘をついていると思われたか。
「名前を売った。だから自分が誰か、わからないの。でも今は糸子って呼ばれてる。ほつれ屋のリィナがそう呼ぶから」
「リィナ」
青年の口元が、ほとんど動かないまま呟いた。その名前に覚えがあるのか、それとも単に反復しただけなのか、読み取れなかった。
「あの商人はここに入ってこなかった」
「入り口で別れた。私だけが中に」
「なぜ」
「追われてたから。あの人たちは廃園を怖がって入ってこなかった」
青年はそれ以上問わなかった。代わりに、すっと立ち上がった。背が高かった。体中に縫い付けられた布の端々が、立ち上がった動作に合わせてさらさらと揺れた。一歩、糸子の方へ歩み寄ってきて、立ち止まる。
「出て行け」
「え」
「追手が引いたなら、用はないだろう」
「でも、あなたは」糸子は言葉を探した。「あなたはここで何をしてるの」
「それはお前に関係ない」
有無を言わさぬ口調だった。感情がないのに、拒絶だけが明確にあった。糸子は踵を返すべきかどうか一瞬迷って、それから視線を泉の脇へと落とした。
泉の縁に沿って、花壇の跡があった。いや、かつて花壇だったものの残骸があった。縁石が三か所で崩れ落ち、中の土代わりの布層が外へこぼれ出している。一番大きな崩れ目からは、薄藤色の古い布が垂れ下がっており、先端がほどけて糸になりかけていた。記憶布が解れる寸前の状態。この布が完全にほどければ、花壇の形が縫界から消える。そうしたらここにあった何かの記憶も、永遠に失われる。
気づいたときには、手が動いていた。
ポーチから針と糸を取り出す動作に、思考は追いついていなかった。あるいは追いつこうとしなかった。糸子の体は、こういうときに先に動く。感情が針に乗り移る前に、指が糸を通してしまう。しゃがみ込んで、崩れた縁石を手で押さえ、ほどけかけた布の端を拾い上げた。
縫い始めると、不思議なことが起きた。いつものことと言えばいつものことだったが、今日は少し違った。針を刺すたびに、指先から微かな熱が伝わってきた。この庭の記憶が、針を通して流れ込んでくるような感覚。白い花が咲いていたこと。誰かが丁寧に土代わりの布を耕していたこと。笑い声の記憶ではなく、もっと静かな何か。誰かがここに座って、ただ庭を眺めていた記憶。
縫い目が揃ってくるにつれ、崩れていた縁石が形を取り戻していった。布の端がしっかりと繋ぎ止められ、垂れ下がっていた藤色の布がぴんと張る。最後の一針を刺して、糸を切る。
顔を上げると、青年が立っていた。
先ほどとは違う場所に。いつの間にか、三歩ほど近づいていた。気づかなかった。あるいは、縫い物に集中しているあいだに近づいてきたのかもしれない。表情は変わっていなかった。感情を削いだ、あの平板な顔。けれども目が、ほんの少しだけ違っていた。
冷たい眼差しの奥に、別の光がある。
それが何なのか、糸子には言葉にできなかった。痛みとも郷愁とも違う、もっと曖昧で、しかし確かに在る何か。ランプの芯に油が残っているかどうか、外から覗き込んでもわからないように、それは表面には出てこなかった。でも確かにあった。糸子の直感が、そう告げた。
「……何をした」
青年の声は、先ほどよりも低かった。感情がないのではなく、感情を抑えているのだと、今度は気づいた。
「縫い直した。ほどけかけてたから」
「頼んでいない」
「わかってる。でも手が動いた」
青年は黙った。花壇の修復箇所へ視線を落とし、また糸子に戻す。何かを確認するような目だった。記憶布を扱える人間を見分けるような、あるいはそうではない何かを見極めるような目。
「……お前の縫い目は」
言いかけて、止まった。
代わりに、青年は一歩下がった。先ほどよりも距離が開いた気がした。感情を持て余したとき、人は近づくのではなく遠ざかる。糸子はそれを、旅の中で何度か見てきた。
「公爵と呼べ」
急に言われて、糸子は瞬いた。
「名前?」
「通り名だ。本名は持っていない」
持っていない、という言い方だった。売り払ったとも、忘れたとも言わなかった。持っていない。糸子は少しだけ、奇妙な親しみを感じた。自分とは形が違うけれど、どこか似た欠け方をしている人だと思った。
「じゃあ私は糸子。さっき言った通り。よろしく、公爵」
青年、公爵は、返事をしなかった。よろしく、とも言わなかった。ただ、糸子から目を逸らさなかった。それだけだった。
庭に夕暮れが沈んでいく。垂れ下がった記憶布たちが橙色に染まり、ゆらゆらと揺れる。修復した花壇の藤色の布だけが、他よりも少し鮮やかに光っていた。
糸子はその光を眺めながら、ひとつのことを考えていた。
この庭に染み込んだ記憶の中に、誰かがここを眺めていた時間があった。誰かが、この藤色の布を丁寧に敷いた時間が。その誰かは今どこにいるのだろう。そして公爵は、何故廃園に先回りして、何も言わずにただ待っていたのだろう。
聞いても答えないだろうと思った。だから聞かなかった。
けれど糸子の針は、まだ少しだけ温かかった。庭の記憶が残っていた。誰かの静かな時間が、指先に。
去ろうとしない自分に気づいたのは、夕暮れが紫に変わり始めた頃だった。