廃園の夜は、静かに降り積もる雪のように白かった。

 いや、正確には白ではなく、古い記憶布が放つ淡い燐光——それが庭園の隅々に染み出して、夜全体を曖昧な真珠色に染めているのだった。ドームの外では風が唸り声を上げているらしく、張り詰めた布の天井が時おり低く震えた。その音が、糸子には何かの寝息のように聞こえた。

 公爵が渋々と示した「部屋」は、かつて温室だったらしい場所の端だった。ガラスの代わりに幾重もの薄布が張られていて、風が通るたびに光の層が揺れる。床には古い記憶布が絨毯代わりに敷かれ、踏むたびに誰かの笑い声の残滓か、花の匂いの断片かが、足の裏からじんわりと伝わってきた。

 「ここで寝ろ」と公爵は言った。それだけだった。

 糸子は用意された場所に腰を下ろしながら、部屋の反対側に陣取った公爵をそっと見た。彼は壁に背を預け、膝を立て、目を閉じていた。眠っているのか、眠っているふりをしているのか、糸子には判断がつかなかった。

 ただ——その全身に縫い付けられた布たちが、微かに光っていた。

 右肩の紺青。左手首の萌黄。胸元に重なる三枚の白。それぞれが別々の律動を持って呼吸しているようで、糸子はしばらくその光の点滅を、数えるともなく数えた。あの時、手が勝手に動いた。針が、糸が、ほどけかけた一枚に吸い寄せられるように走った。そしてあの青年は——確かに、息を呑んだ。

 眠れなかった。

 眠れないのは糸子だけではなかったらしく、しばらくして公爵が静かに目を開けた。視線は天井——揺れる布の天蓋——に向けたまま、口だけが動いた。

 「お前は」と彼は言った。「なぜ縫った」

 皮肉でも詰問でもない、ただ素朴な問いだった。それがかえって糸子を戸惑わせた。

 「わからない」正直に答えた。「手が動いたから」

 沈黙。

 「……そういう体質なのか」

 「そう呼んでいいのかも分からないけど。感情が針に移るみたいで。あの時は——ほどけてほしくなかった。だから」

 言いかけて止まった。ほどけてほしくなかった、という言葉の重みを、口に出してから初めて気がついた。何が、とは言えなかった。布が、ではなく、もっと漠然とした何かが。

 公爵はそれ以上聞かなかった。ただ視線を天井から下ろし、自分の左手を眺めた。手の甲に縫い付けられた一枚の布——浅葱色の、薄い記憶布——がゆっくりと光り始めた。

 「触るな」と彼は言った。糸子が動いてもいないのに。

 「触らない」と糸子は答えた。

 でも目は離せなかった。

 浅葱色の布の中に、影が滲むように形が現れた。人の輪郭。小さな——子どもの、輪郭。そしてそれが振り向いた瞬間、糸子の胸の奥で何かが細い音を立てた。

 笑顔だった。

 光の中の子どもは笑っていた。屈託なく、全力で。歯を見せて、目を細めて、両腕を少し広げて——まるで誰かに向かって走り出す直前のような、そういう笑顔だった。

 糸子は息を詰めた。

 知っている、と思った。いや、知っているはずがない。自分の記憶は売り払った。名前も、顔も、過去も、大切なものの形も——全部手放した。それでも胸の奥の、記憶よりもっと深い場所にある何かが、あの笑顔を知っていると言った。

 「誰、これ」

 声が出たのは、考えるより先だった。

 公爵の目がすっと細くなった。布の光が揺れる。

 「知らない」彼は静かに言った。「俺の布は全部、他人のものだ」

 その言葉の意味を、糸子はゆっくりと飲み込んだ。

 「全部?」

 「全部だ」

 公爵は立て膝に肘を乗せ、自分の右腕を眺めた。そこには五枚、六枚と記憶布が重なっている。どれも色も質も違う。絹のようなもの、麻のようなもの、名も分からない素材のもの。

 「俺自身の記憶布は、ない。縫い代の分だけ残っているかもしれないが——それが俺なのかどうかも、今は分からない」

 淡々とした声だった。事実を述べるように。しかしその淡々さの底に、何かが沈殿しているのを糸子は感じた。長い時間をかけて積もった、感情と呼ぶには重すぎる何かが。

 「それで、公爵って名乗ってるの」

 「俺を作った人間がそう縫い付けた。らしい」

 「らしい、ってことは——覚えてない?」

 「ない」

 糸子は膝を抱えた。浅葱の布の中の笑顔は、もう消えていた。代わりに布はただ薄く光りながら、呼吸するように明滅している。

 「私も」と糸子は言った。「ない。名前もないし、昔のこともない。何も」

 「売ったのか」

 「売った」

 「物好きな」

 「事情があった——と思う。覚えてないけど」

 小さな笑いが零れた。笑うしかない話だと思ったから。すると公爵が——ほんの僅かに、口の端を動かした。笑い、とは言えないほどの微細な変化だったが、確かに何かが緩んだ。糸子はそれを見て、また何かが針の先に宿るのを感じた。

 縫いたい、とは違う。ただ、この緩みを——どこかに留めておきたいという気持ちだった。

 「お前、名前は何という」公爵が問うた。

 「ない」

 「ないのか」

 「ないから、糸子って呼ばれてる。針と糸を持ち歩いてるから、行く先々でそう呼ばれるようになった。それだけ」

 「……糸子」

 彼が声に出して繰り返した。試すように、確かめるように。その音が夜の静寂に溶けていく様子を、糸子は目を閉じて聞いた。誰かに名前を呼ばれることが、どんなに不思議な感触を持つか——記憶を失って初めて、それを知った。

 「変な名前だな」と公爵は言った。

 「あなたの名前だって変でしょう」

 「そうだな」

 また静寂が来た。今度は最初の張り詰めた沈黙とは違う、少し空気の抜けた静けさだった。

 糸子は目を閉じた。瞼の裏に、あの笑顔がまだ残っていた。子どもの、全力の笑顔。知っているはずのない笑顔が、なぜか胸の奥で温かかった。それが何なのかを問う言葉を、今の糸子は持っていなかった。ただ感じるだけだった——あれは、どこかで見たものだと。

 眠気は遠かったが、体は静かに沈んでいった。

 布の天蓋が揺れるたびに、淡い光が部屋を満たした。記憶の海の底に沈んでいくような、奇妙な穏やかさだった。

 最後に聞いたのは、公爵が低く、独り言のように呟く声だった。

 「……明日、出て行け」

 言葉は冷たかった。でもその声の質が、昼間とは僅かに違った。糸子はそれに気づきながら、返事をする前に眠りに落ちた。

 浅葱の布の笑顔が、夢の縁で一度だけ光った。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

7

継ぎ接ぎの夜語り

緒方 縹

2026-05-20

前の話
第7話 継ぎ接ぎの夜語り - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版