夜が布のように剥がれかけていた。
糸子が走っている。石畳の継ぎ目が凸凹と足を弾き返し、それでも止まれなかった。息を吸うたびに喉の奥が痛んだ。背後から聞こえる足音は三つ、いや四つ。規則的で、焦りのない追跡者の歩幅だった。慌てていないのだ——つまり逃げ切れると思われていない。
公爵はいない。
ドームのほつれを縫い繋いだあの夜から、まだ数時間も経っていなかった。「廃園へ向かえ」と背中で語る公爵の後を追い、裏路地をいくつか曲がったところで、二人は別れた。正確には、糸子が不用意に角を曲がった瞬間に男たちが飛び出してきて、公爵が「走れ」と一言だけ言い残して奴らに向かっていったのだ。迷いも、確認も、なかった。まるで最初からそうなることを知っていたかのように。
糸子は走った。走るしかなかった。感情が指先へ流れ込み、持っていた針が鈍く光った。縫えるとしても——何を? 道を閉じる? 壁を作る? そんなことができるかどうか、糸子にはまだわからない。自分の力の輪郭がどこにあるのか、霧の中を手探りしているようなものだった。
都市の明かりが遠くなっていく。
縫界の街というのは、中心へ行くほど記憶布が濃く、建物の輪郭がはっきりしている。逆に端へ向かうほど、色が薄れ、形が曖昧になる。糸子はいつのまにか、その「端」へと足を向けていた。建物の壁が滲み始めていた。石造りのはずの外壁が、よく見ると細かい縫い目でできており、その縫い目がほどけかけてふわふわと空中に糸を漂わせていた。地面も石畳から布張りへと変わり、踏む感触が柔らかく、沈み込むようだ。
「そっちは辺境だぞ」
背後から声がした。追跡者の一人だ。嘲るような調子だったが、その声には確かに、わずかな躊躇いが混じっていた。
「地形が崩れてる。素人が迷い込んだら出てこられない」
出てこられない。
糸子の足が一瞬だけ緩んだ。けれどすぐに首を振る。出てこられないのは向こうも同じはずだ。それとも、ガルデの手下たちは辺境に慣れているのか? 記憶布の売買を仕切る商人の配下なら、ありえない話でもなかった。
前方に、霧があった。
いや、霧ではない。記憶が薄れた場所に生じる「白濁」だ。リィナがどこかで言っていた——辺境では古い記憶が堆積しすぎて、新しい形を取れなくなった布が空気そのものになる、と。吸い込んでも体には入らない。ただ、視界を白く塗りつぶす。
白濁の中へ踏み込んだ瞬間、足音が消えた。
自分のものも、追跡者のものも。音が布に吸われているのだろう。糸子は手を前に伸ばしながら歩いた。指先に、ちりちりとした感覚がある。空中に漂う記憶布の糸端が、皮膚をかすっているのだ。
その糸に、何かが滲んでいた。
感情、ではない。もっと古いもの。形になりきれなかった誰かの痕跡。糸子の針が反応して、左手の親指と人差し指の間から細い熱が走った。縫いたい、という衝動ではなく——読みたい、という感覚に近かった。この糸は誰のものだろう。どんな場所の記憶だろう。
足が何かに当たった。
白濁の中、輪郭を確かめるように手で触れると、それは石だった。苔むした、冷たい石。積み上げられた石。壁だ。いや、門柱だ。手を上へ滑らせると、その上部に彫刻がある——花の形、あるいは葉の形。かつてここに誰かが丁寧に刻みつけた植物のレリーフが、時間と記憶の風化にもかかわらず、指の腹には生々しく刻まれていた。
門があった。
古い、木製の門。蝶番がほとんど錆びて、片側が完全に地面に倒れ込んでいる。もう片側だけが、かろうじて門柱にぶら下がっていた。その隙間から、白濁の向こうに——何か、別の白があった。
霧ではなく、光に近い白。
糸子は一瞬だけ立ち止まった。
後ろで、白濁を掻き分けるような音がした。追跡者たちが踏み込んできた。
「いたぞ」
声が白濁の中でくぐもり、方向がわからない。どこにいる。左か、右か。
糸子は門の隙間に体をねじ込んだ。
とたんに、世界が変わった。
白濁が消えた。足の下に土の感触が戻った。土というより、長年踏まれなかった柔らかな腐葉土だ。鼻に、甘いような、古いような、名前のつけられない匂いが満ちた。空気が違う。重さが違う。記憶が積み重なりすぎて、凝固した場所の濃い空気だ。
廃園だった。
視界が開けると同時に、糸子は息を呑んだ。
かつて庭園だったはずの場所が、まるごと記憶布に覆われていた。木々の枝という枝に、色褪せた布が幾重にも垂れ下がっている。風も吹いていないのに、その布たちがかすかに揺れていた。布の一枚一枚が異なる色を持っていた——深いあお、錆びたあか、夜明け前のしろ。そのどれもが擦り切れ、縫い目が解けかけており、ほつれた糸が空中に伸びては絡み、新たな模様を描いていた。
地面にも布が堆積していた。何十年、何百年分の記憶布が落ち重なり、腐葉土の代わりになっている。踏むたびに、微かな音がした。何かの声のような、何かの音楽のような。記憶が、くぐもった声で語りかけようとしている。
糸子の針が、激しく震えた。
こんなにたくさんの記憶布が——そして、どれも今にも解けそうだ。縫い直さなければ、という衝動が体中を走った。でも何から? どこから? 全部いっぺんには——
「入ってくるな」
背後の門の方向で、一人の男が怒鳴った。白濁の縁に立って、中を覗き込んでいる。その顔が、露骨に歪んでいた。恐れているのだ。
「こんな場所、記憶が暴走したら……」
「でも、ガルデ様の命令は……」
声が二つ、白濁の中で言い争っている。糸子は後退りしながら、その声が遠くなるのを待った。彼らは入ってこない。廃園の異様さが、追跡者たちの足を止めていた。
しばらくして、声が消えた。
静寂が戻ってきた。古い記憶たちが揺れている静寂だ。
糸子はゆっくりと、廃園の奥を見渡した。
木々の間から、何かが見える。建物だ。いや、かつて建物だったもの。屋根が半分落ち、壁の代わりに布が張り巡らされた廃屋。その前に、朽ちた噴水の台座。水のない噴水の中に、記憶布が積もって小さな山になっている。
その噴水の縁に、誰かが座っていた。
糸子の心臓が跳ねた。
人影は動かない。人形か、それとも記憶布で形作られた幻像か——糸子が目を凝らしたとき、人影がゆっくりと顔を上げた。
白い髪。継ぎ接ぎの外套。
公爵だった。
どうやってここへ? 追跡者たちを退けて、糸子より先にここへ? 疑問が積み重なったが、それより先に口をついて出た言葉は、まったく別のものだった。
「……待ってたの」
公爵は何も答えなかった。ただ、糸子から目を逸らした。わずかに、ほんのわずかに、口の端が動いたように見えた。
糸子は拳を握った。針が静かに熱を持った。
廃園が、息をするように揺れていた。解けかけた記憶布の糸が夜空へ伸び、星の代わりに光っていた。その一本一本の端に、誰かの忘れた名前が結ばれているような気がした。
糸子はまだ、自分の名前を知らない。
けれどこの場所は——何かを知っている。