夜の縫界は、昼とはまるで別の顔をしていた。

 ステッチタウンの路地は記憶布の夜光性によって淡く発光し、石畳の代わりに敷き詰められた古い布地が、足音を柔らかく飲み込む。糸子が窓の外で見とめた人影は、公爵が部屋に入ってきた瞬間にはもう消えていた。残ったのは路地の角に引っかかった細い白糸の切れ端一本だけで、それさえも夜風に揺れて、やがて宙へほどけていった。

「気のせい、じゃないよね」

 糸子が問うと、公爵は切れ端があった場所をしばらく見つめたのち、短く言った。

「糸の種類が違う。この街のものじゃない」

 それ以上の説明はなかったが、糸子には十分だった。二人は無言のうちに荷物を帯刀する要領で手近に置き、その夜は交代で眠った。

 翌朝、宿の食堂に下りると、そこに男が座っていた。

 テーブルの中央。他の客がなんとなく避けるようにして空けた空間に、男はひとりでいた。灰青色の外套を纏い、白磁の茶碗を両手で包むように持ちながら、入口から入ってきた糸子たちを見て、微笑んだ。

 微笑む、というより、微笑みの形に顔を整えた、という表現の方が正確だったかもしれない。目が少しも動かなかった。

「おはようございます。ずいぶんとお待ちしました」

 声は低く、穏やかで、絹布を幾重にも重ねたような手触りがあった。糸子の足が一瞬止まる。隣で公爵が無言のまま歩みを緩めず、テーブルまで進んで男の正面の椅子を引いた。促すように糸子を見る。

 糸子は唾を飲んで、腰を下ろした。

「……ガルデ、さん」

 名指しすると、男は少し楽しそうに眉を上げた。

「もうご存知でしたか。私はまだ名乗ってもいないのに」

「知ってる人に話を聞いた」

「リィナですね」

 断言するような口調だった。糸子は表情を変えないようにしたが、内心で舌を打つ。この男は最初から全部わかった上でここに座っている。

 ガルデは茶碗をそっとテーブルに置いた。縫界の器は多くが記憶布を固めて焼いたもので、その表面には薄く過去の映像が滲んでいることがある。ガルデの茶碗には、何も映っていなかった。

「怖い顔をしないでください」男は柔らかく言った。「私はあなた方と争いに来たわけではない。商人ですから、商談のために参りました」

「商談」

 公爵が初めて口を開いた。ガルデは視線を移し、公爵の顔、首元、外套の端から覗く継ぎ接ぎの布地を順に眺めた。観察するというよりも、値踏みするような目だった。

「継ぎ接ぎ公爵。噂通り、見事なコレクションをお持ちだ」

「コレクションとは人聞きが悪い」

「では何と呼びますか? 他者の記憶布を身に縫い付けることで自己を保持する、その方法論を」

 公爵の目が細くなる。ガルデは臆することなく続けた。

「批難しているわけではありませんよ。私はむしろ、その技術の価値を正当に評価している数少ない人間のひとりです。縫界において、記憶布を自在に扱える者がどれほど希少か、あなた自身がよくご存知のはずだ」

 糸子は手の中で、指先が微かに熱を持つのを感じた。感情が昂ぶると針と糸に乗り移る体質は、怒りにも反応する。今はまだ表に出さなかったが、掌の中でしっかりと確かめた。針は、ある。

「本題を」と糸子は言った。

 ガルデが糸子を見た。その目に初めて、何か生きたものが宿った気がした。好奇、だったかもしれない。

「あなたが糸子さん。名前の記憶を売り払った少女」

「名前はある。糸子って呼ばれてる」

「そう。でも、それがご自分の本当の名前かどうか、今のあなたには確かめようがない」

 糸子は黙った。反論できなかった。

 ガルデは外套の内側から、小さな布片を取り出した。親指の爪ほどの大きさで、色は薄い金色。その布片は、微かに脈打つように揺れていた。

「記憶布の断片です。もっとも基層に近い古い記憶。縫界の成り立ちに触れるほど古い。これを含む記録の中に、あなた方二人に関わるものが混じっている可能性が高い」

「可能性が高い、というのは」

「確認するには縫合が必要です。記憶布を繋ぎ合わせ、流れを読む技術。私の知る限り、今の縫界でそれができる者は極めて少ない」

 ガルデの視線が、糸子の手元に落ちた。

「しかし、あなたはできる」

 静かな断言だった。糸子は拳を握る。

「私が何を提供して、何を貰えるんですか」

「賢いですね」ガルデは微笑んだ。本物の笑みに見えた。だからこそ、糸子は警戒を強めた。「シンプルな取引です。あなたの縫合能力、そして継ぎ接ぎ公爵が保持する記憶布群へのアクセスを、私に提供していただく。代わりに私は、あなたが売り払った名前の記憶がどこへ流れたかを追跡し、取り戻す手助けをする。公爵殿には、縫い付ける前のご自身の記憶布の所在に関する情報を」

 食堂の空気が、静まり返った。

 他の客たちは各々の朝食に向かっているが、誰もこちらを見ていない。見ないようにしている、というのが正確か。ステッチタウンでガルデの名を知らぬ者はいない。

 糸子は隣を見た。公爵は正面を向いたまま動かなかったが、その外套の袖口から出た手が、テーブルの端をほんの僅かに握っているのが見えた。

 失った記憶。

 糸子には想像するしかないが、公爵にとってそれは、体中に他人の記憶布を縫い付けて今日まで存在してきた理由そのものだ。

 誘惑だった。

 糸子の胸の内側でも、何かが揺れていた。名前の記憶。自分が何者かを知ること。それが目の前に吊るされている。細い金の糸で、ガルデの指先から。

「一点、確認させてください」

 公爵が口を開いた。声は平坦だった。

「あなたが記憶布を独占しようとしているという話は、事実ですか」

 ガルデは表情を変えなかった。

「誰から聞いたかは問いません。ただ、独占という言葉は正確ではない。私は流通を整えようとしている。今の縫界では記憶布の管理が杜撰すぎる。ほつれ、消失、無秩序な売買。このままでは縫界は崩壊する。それを防ぐために適切な管理が必要だと考えている、それだけです」

「廃園を消そうとしているのも、その一環で?」

 糸子が言うと、ガルデは初めてわずかに間を置いた。

「不安定な記憶布は全体に影響します。傷んだ布を放置すれば、隣の布もほつれる。それは縫物の基本ですよ」

「廃園にも記憶がある」

「古い傷んだ記憶です」

「それでも記憶です」

 糸子の声は、自分でも意外なほど強かった。ガルデが彼女を見た。今度の目には、好奇よりも何か別のものがあった。計算か、それとも本物の関心か、糸子には判断できなかった。

「答えは今すぐ出さなくていい」ガルデは立ち上がりながら言った。外套の裾が揺れ、その内側で無数の布片が静かに音を立てた気がした。「ステッチタウンにはしばらく滞在します。考えてください。時間は、あまりないかもしれないけれど」

 最後の言葉は、脅しとも警告ともつかなかった。

 男は外套の釦を留め、食堂の出口に向かった。誰も彼を見ていないのに、部屋全体がその背中に押されるように静まり返っていた。

 扉が閉まった。

 糸子はしばらく、ガルデが座っていた椅子を見ていた。茶碗だけが残っている。内側を覗くと、やはり何も映っていなかった。記憶が一切ない器。

「公爵」

「わかってる」

「乗る気?」

「ない」

 即答だった。糸子は少し肩の力が抜けるのを感じた。しかし公爵は続けた。

「ただ」

 糸子は顔を向ける。

「あの男が持っていた布片。私の記憶布に、同じ縫い目の匂いがした」

 窓の外で、朝のステッチタウンが動き始めていた。布地の路地を縫うように人が流れ、遠くで記憶布の解れを直す縫い師の槌音が響く。どこかで誰かが何かを売り、どこかで誰かが何かを失っていく。

 糸子は掌を開いた。熱を帯びた指先に、細い針の感触があった。まだ、糸は繋がっている。

 それだけを確かめて、彼女は立ち上がった。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

31

ガルデとの初接触

緒方 縹

2026-06-13

前の話
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