ガルデの声が、まだ耳の奥に貼り付いていた。

 糸子は薄い布の壁を背にして膝を抱え、暗い天井を見上げた。宿の部屋は古い記憶布で編まれていて、じっと目を凝らすと布目の中に見知らぬ誰かの食卓や、雨に濡れた石畳の情景が透けて見える。他人の記憶に包まれて眠るのが縫界の普通だと知ってはいても、今夜だけはその無数の「誰か」の痕跡が、酷く遠くに感じられた。

 ――あなたの名前を取り戻せる。

 ガルデの言葉は、刃物よりも柔らかい形で刺さってくる。鋭い痛みではなく、水が布に染みるように。断ったはずなのに、じわじわと内側へ広がっていく。

 糸子は爪先に視線を落とした。右手の指先に、細い針が一本横たわっている。感情が昂ると針と糸に宿るという、自分でも御しきれない体質のせいで、指先はいつだって正直だった。今も、針の先端がかすかに震えている。まるで糸子自身の迷いをそのまま写し取ったように。

 名前。

 声に出さずに思ってみる。自分の名前を。しかし頭の中には霧しかない。「糸子」というのはリィナがその場の思いつきでつけてくれた仮の名だ。本物の名前は、どこかの記憶商に売り払った。どんな顔の誰に売ったのか、何のために売ったのかさえ、もう分からない。分からないということだけが、かろうじて残っている。

 ガルデはそれを知っていた。糸子の失われた記憶の在処を知っているような口ぶりだった。それとも知っているふりをして揺さぶっただけか。どちらにせよ、揺さぶられてしまったことは事実で、糸子はその事実から目を逸らせないでいた。

 廊下の向こうで、誰かが寝返りを打つ気配がした。

 おそらく公爵だろう。彼は毎夜、少ない言葉のまま自分の部屋へ消える。眠れているのかどうかも分からない。体中に縫い付けた他者の記憶布が夜の間にどんな夢を見せるのか、糸子には想像するしかない。

 昼間、ガルデと対峙したあの場面を思い返す。糸子が「お断りします」と言い切った瞬間、公爵は何も言わなかった。同意も異論も、何も。ただ少し間があって、それからガルデに向けて静かな目を向けただけだった。あの目の色だけで、ガルデは一歩退いた。言葉よりも重いものが、公爵の沈黙の中にはある。

 だからこそ、糸子は自分の揺れを悟られたくなかった。

 断ったのは本当だ。ガルデを信用できないのも本当だ。あの男の笑顔の裏に何が畳まれているか、考えるだけで指先の針が冷たくなる。けれど、それとは別のところで、もう一人の自分がずっと囁いているのだ。

 ――もし本当に、名前が戻ってきたら。

 糸子は目を閉じた。暗闇の中で、見えもしない名前の形を探そうとして、また霧に行き当たる。その霧が悲しいのか、怖いのか、もうそれすらよく分からなくなってきた。ただ針だけが、指の中でかすかに熱を帯びていた。

 眠れないまま夜が明けた。

 縫界の夜明けは、布地が光を透かす色の変化として訪れる。天井の記憶布が濃紺から薄灰へ、やがて白みがかった金色へと移ろう。糸子はその変化をずっと眺めながら、結局一睡もできなかったことに気づいた。

 重い体を引きずって廊下へ出ると、公爵の部屋の扉が細く開いていた。人の気配はない。もう起きているのか、あるいは最初から眠らなかったのか。

 宿の外へ出ると、朝の冷気が薄い布のように頬に触れた。廃園のある方角から、かすかに花の匂いがする。といっても本物の花ではない。古い記憶布の中に残された、かつての庭園の記憶が染み出てくる匂いだ。縫界の辺境ほどそういった気配が濃くなる。

 公爵は宿の前の石段に腰を下ろして、何かを手の中で転がしていた。

 糸子が近づいても振り返らなかった。ただ少し体を傾けて、隣に座る空間を空けた。それだけで、来い、という意味だと分かる。二人の間で交わされる言葉の多くは、そういう形をしている。

 石段に座ると、公爵が手を差し出した。

 その手のひらの上に、小さな布の断片があった。

 縦横ともに指二本分ほどの、くすんだ白地に薄紫の刺繍が入った布きれ。刺繍の模様は花びらを幾枚も重ねた形で、古びてはいるが丁寧な仕事だった。記憶布の断片だ。それも、かなり古い。

 「廃園のものか」と糸子が聞くと、公爵は短く頷いた。

 「昨夜、あの場所の端で拾った」

 それだけ言って、また黙った。糸子は布の断片を受け取り、指先でそっと触れた。

 記憶布に触れると、縫合の体質を持つ糸子には薄らと情景が流れ込んでくる。広い庭園。丁寧に刈り込まれた生け垣。何人もの子供が走り回っている。笑い声。誰かが花を摘んで、別の誰かの髪に挿してやっている。幸福な記憶だった。今は廃墟になってしまったあの場所に、かつてそんな時間があったという記憶が、この小さな布切れの中に残っていた。

 糸子は気づくと、目の端が熱くなっていた。

 「なんで、これを」

 声が少し掠れた。公爵はしばらく前を向いたままでいたが、やがて静かに言った。

 「昨日、お前は正しい判断をした」

 賞賛でも慰めでもない、ただ事実を置くような言い方だった。

 「でも」と糸子は続きを待った。

 「でも、揺れただろう」

 問いではなかった。断定でもなかった。ただそれを知っている、という声だった。糸子は何も言い返せなかった。隠していたつもりが、全部見えていたのだ。

 「揺れることは間違いじゃない」

 公爵の声は低く、抑制が利いていた。感情を引っ込めることに慣れた人間の声だと、糸子はいつも思う。けれど今は、その抑制の布地がほんの少しだけ薄くなっているような気がした。

 「お前には、取り戻したいものがある。それがあるから揺れる。揺れながらも断った。それで十分だ」

 糸子は手の中の布切れを見つめた。薄紫の花びらの刺繍が、朝の光の中でかすかに輝いていた。廃園になっても、記憶の中の庭はまだ花を咲かせている。失われても、消えていない。形を変えて、こんなふうに誰かの手のひらに残っている。

 「公爵は」と糸子は言いかけた。「公爵は、怖くないのか。自分の記憶がないことが」

 長い沈黙があった。

 石段の下を、朝の風が布のように流れていく。

 「怖かった」と公爵は言った。過去形だった。「今は、縫うべきものを縫っている間は、怖くない」

 それ以上は何も言わなかった。糸子も聞かなかった。二人の間で言葉は切れ、かわりに朝の光が廃園の方角から伸びてきて、石段の上に柔らかく落ちた。

 糸子はもう一度、布切れに指を乗せた。針が、今度は震えていなかった。

 名前を取り戻したい気持ちは、消えていない。きっとこれからも消えない。でも今は、この小さな布切れが手の中にある。廃園の花の記憶が、指先から静かに流れ込んでくる。それで、今日一日は立っていられる気がした。

 「行こうか」と公爵が立ち上がった。

 「うん」と糸子は答えた。

 二人は並んで歩き出す。廃園の方角へではなく、次の町へ続く布張りの道へ。その道の先でリィナが宿の前の辻に立って手を振っているのが見えた。いつもの軽い笑顔で、しかし糸子には、その目の奥に何かが棲んでいることが、最近少しずつ分かってきた。

 リィナはいつ、自分が縫界の崩壊を恐れている理由を話してくれるのだろう。

 そしてガルデは、本当に糸子の名前の在処を知っているのか。

 問いは消えない。消えないまま、三人は歩いていく。縫界の朝は布が光を孕む色をしていて、その中を進むたびに足の下の道が少しずつほどけ、また新しい記憶で織り直されていくようだった。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

32

糸子の揺れる心

緒方 縹

2026-06-14

前の話
第32話 糸子の揺れる心 - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版