遠くからでも、その町は光っていた。

 正確には光るのではない。縫い目が、照り返しているのだ。無数の糸が交差する地面が朝の斜光を受けて、まるで銀箔を敷き詰めたように明滅する。糸子は丘の頂から眼下を眺め、思わず目を細めた。

「あれが……」

「ステッチタウン」

 公爵が静かに続けた。いつも通り、感情を外に出すことを嫌うような低い声だった。けれど糸子には分かった。その声のどこか奥底に、何かが揺れていることが。三百四十七本の縫い目を持つ外套の下で、彼もまた息を呑んでいるに違いなかった。

 町への一本道を下りながら、糸子は足裏から伝わる微振動に気づいた。土が揺れているのではない。布が、揺れている。地面そのものが縫い合わされた記憶布であり、異なる都市の記憶が幾層にも重なって縫い目を形成しているために、絶えず微かに波打っているのだ。歩くたびに足元がわずかに沈み、また戻る。まるで巨大な縫い台の上を歩いているようだった。

「慣れるまで気持ち悪いかもしれない」

 公爵が無愛想に言った。

「大丈夫。揺れる船より揺れる橋より、揺れる記憶のほうがまだ信用できる気がするから」

 公爵が一瞬だけ糸子のほうを見た。何か言いかけて、やめた。その沈黙を、糸子はもう怖いと思わなかった。

 ステッチタウンの入口には、大きなアーチが立っていた。アーチそのものが縫い目で編まれており、右柱には南の海岸都市の記憶布、左柱には北の雪原都市の記憶布が使われているらしく、右と左では明らかに質感が違う。触れると右は粗い麻のようにざらつき、左は滑らかな絹の感触がした。

「ねえ、これって」

「複数の都市の記憶が交差する場所だから、異なる布が混在する。それがステッチタウンの成り立ちだ」

「つまり、この町自体が縫い目ってこと?」

「縫界の、心臓部だ」

 それだけ言って公爵はアーチをくぐった。糸子も続く。アーチをくぐった瞬間、音が変わった。静かな道の空気が一変し、無数の声、色、においが一度に押し寄せてきた。

 市場だった。いや、市場という言葉では足りない。路地という路地が商いの場になっており、布を売る者、記憶の切れ端を競り売る者、縫い針と糸を天秤に載せて値踏みする者、果ては「昨日の夢の繊維」と書かれた看板を掲げる謎の露店まで、雑然と、しかし活気に満ちて連なっていた。着ている服も顔立ちも言葉も、人によってまるで違う。南の民族衣装に身を包んだ老人の隣で、北の毛皮を纏った子どもが走り回る。縫界のあちこちから記憶布を担いでやってくる商人たちが、この場所を中継地点として使うからだろう。

 糸子の指先が、うずいた。

 体質だ、とわかっている。感情が針と糸に乗り移るこの奇妙な体質が、この町の濃密な記憶の気配に反応して、指の腹がじりじりと熱を持ち始めていた。縫いたい、という衝動ではなく、もっと根源的な何か。この場所が発している無数の記憶の声を、全部受け取ろうとしているような感覚だった。

「糸子」

 公爵の声が、鋭かった。

「指、隠せ」

 言われて気づいた。指先の皮膚の下で、糸が透けて光っている。蒼白い、記憶の色をした光だった。慌てて手袋を引っ張ったが、持っていない。代わりに袖を伸ばして手首まで覆い、ぎゅっと握りこんだ。

「なんで」

「この町では、縫合師の力が値段になる。目をつけられると厄介だ」

 それだけ聞けば十分だった。糸子は頷いて、市場の雑踏に紛れるよう公爵の外套の影に近づいた。外套のいちばん端の縫い目を、そっと指先で触れる。するとあの微振動が戻ってきた。地面からではなく、外套から。公爵が縫い付けた無数の記憶が、絶えず微かに揺れていることを、糸子はまたひとつ学んだ。

 宿を探しながら、公爵が町の構造を簡潔に説明した。ステッチタウンは縫界の地図で見ると正確に中央に位置しており、縫界を構成する主要都市七つそれぞれから伸びる記憶布の縫い目が全てこの場所に収束している。言わばすべての都市の「継ぎ目」だ。一本の縫い目が解けると周辺都市に影響が出るが、ここで縫い目が総崩れすれば、縫界は一気にほつれる。

「怖い話ね」

「楽しそうに言うな」

「だって、そんなに重要な場所に来てしまったんだって思ったら、少し笑えてきた」

 公爵は答えなかった。けれどその沈黙は、怒っているのではなかったと思う。

 宿は町の中心部からすこし外れた裏通りにあった。外壁が七色の布切れで継ぎ接ぎにされており、見た目は賑やかだが、それぞれの布の質が微妙に違うせいで、建物全体がゆっくりと呼吸しているように見えた。宿の主人は恰幅のいい中年女性で、公爵の外套を一瞥したあと、糸子の顔をじっと見て、それから何も言わずに部屋の鍵を渡した。

「名前は?」と問われ、糸子は一瞬だけ止まった。

「糸子、と呼ばれています」

 主人は「ふうん」と言ったきりだった。それ以上聞かなかった。この町では名前は記憶であり、記憶は売買されるものだということを、皆がよく知っているのかもしれない。

 二階の部屋は狭かったが、小さな窓から町が見えた。糸子は窓枠に肘をついて、眼下の縫い目の交差を眺めた。日が傾き始め、光の角度が変わると、地面の縫い目が橙色に染まった。美しかった。こんなに美しい場所が、こんなに不安定な場所に建っているという事実が、糸子にはどうしても心から離れなかった。

 公爵がベッドの端に腰を下ろし、外套の内側に手を入れた。何かを確認するようなしぐさだった。縫い目の、糸子には見えない部分を指先でなぞっているのかもしれない。

「ねえ」

「なんだ」

「この町に来た目的、教えてくれないの」

 公爵の手が止まった。

「情報収集だ」

「それだけ?」

「……今は、それだけだ」

 今は、という言葉の意味を、糸子は問わなかった。この人にはまだ話せないことがあって、それをいつか話そうとしていることが、その二文字でわかったから。昨日「あなたに会えたから後悔しない」と言った自分の言葉を、今日の公爵の「今は」が、静かに受け取ってくれているような気がした。

 夜になると、町の縫い目が青白く光り始めた。

 記憶布が夜の冷気に反応して、微かに発光するのだと宿の主人が教えてくれた。昼間あれほど賑やかだった市場も、夜は布で覆われて静まり返る。しかし地面の揺れは止まらない。むしろ夜のほうが振動が強くなる気がした。

 眠れずに窓の外を見ていた糸子は、ふと気づいた。

 市場の外れ、布で覆われた露店の一つが、微かに光っている。青白い縫い目の光ではなく、もっと暗い、くすんだ赤みを帯びた光だ。

 見てはいけないものを見ている気がした。しかし目が離せなかった。

 光の中に、人影があった。一つではない。複数の影が、何かを囲んでいる。その中心に、糸子には見覚えのある輪郭があった。

 大きくて、重くて、冷たい存在感。

 ガルデだ、と糸子は思った。

 確信はなかった。しかし指先がまたうずいた。今度は縫いたいという衝動でも、記憶を受け取ろうとする反応でもなく、もっと単純な、危険を知らせる痛みだった。

 糸子は静かにベッドを離れ、公爵の肩を揺らした。

「起きて」

 公爵の目が、一瞬で開いた。

「外に、誰かいる」

 彼は何も聞かずに立ち上がった。外套に手を伸ばし、それを羽織る前に一度だけ糸子を見た。

 その目に、三百四十七本の縫い目の重さがあった。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

30

縫い目の町・ステッチタウン

緒方 縹

2026-06-12

前の話
第30話 縫い目の町・ステッチタウン - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版