沈黙が、布のように室内を覆った。

 オリカの言葉はまだ空気の中に残っていた。音ではなく、重さとして。糸子はそれを皮膚で感じながら、隣に立つ公爵の横顔をそっと盗み見た。

 変わらない。

 そう思いかけて、やめた。

 公爵の右手が、外套の裾を、ほんのわずかに握りしめている。気づかなければ見過ごすような、かすかな動作だった。だが糸子の目はその手の震えを捉えていた。指の先から、微細な波が伝わってくるような気がした。針と糸が体の中で反応するように、ざわりと立ち上がる感覚。

「あの庭園の主」

 公爵が、低い声で繰り返した。感情を押しつぶしたような平坦さで。しかしその声の底に、糸子は裂け目のようなものを聞いた。

「廃園の話をしているのか」

「そうです」オリカは揺らがなかった。白髪を束ねた彼女の目は、公爵の胸の辺りに注がれていた。「あなたが体に縫い付けた記憶布の中に、もっとも深く埋め込まれたものがある。あれは他者から集めたものではない。あなた自身の血に刻まれた記憶です」

 公爵は何も言わなかった。

 室内の隅で、リィナが息を呑む音がした。普段は軽口を挟まずにいられない彼女が、今は唇を閉じたまま壁に背を預けている。その顔には、糸子が見たことのない種類の緊張があった。

「見せてもらえますか」

 オリカが静かに言った。命令ではなく、懇願でもなく、ただ確認するような声で。

 公爵は長い間、動かなかった。

 糸子はその沈黙の重さを数えるように待った。公爵が嫌だと言えば、それでいい。彼がここで立ち去ると言っても、自分はきっとついていく。理由は分からないが、そう思った。名前もない自分が、確かに持っている数少ない確信のひとつだった。

 やがて公爵は、外套の釦を外しはじめた。

 ゆっくりと、一つずつ。まるで何年も開けていない箱を開けるような手つきで。

 外套が肩から落ちると、下に着込んだ薄い上着の布地越しに、縫い付けられた記憶布の輪郭が浮かび上がった。人の胸から腹にかけて、幾重にも縫い重ねられた布の層。色も質感もばらばらで、それが公爵という存在を構成していた。かつて糸子が初めて見たとき、まるで継ぎ接ぎの地図のようだと思ったものだ。

 オリカがゆっくりと近づいた。老いた指先が、公爵の胸の中央、心臓の少し上を指した。

「ここです」

 その場所だけ、布の色が違った。

 他の記憶布が褪せた錦や薄絹の色をしているのに対し、そこだけが深い藍色をしていた。夜の庭園の空の色。糸子はそれを見た瞬間、どこかで見たことがあるような気がして、胸の奥がざわついた。しかし記憶の端を掴もうとすると、するりと逃げていく。

「この藍布は、縫い手の家系にのみ宿る記憶の色です」オリカの声は低く、祈るような響きをもっていた。「一般の縫師が扱う記憶布は、持ち主の感情と経験によって色を変えます。しかしこれは違う。縫界そのものを縫い合わせた最初の手から受け継がれた、固有の色。縫い手の証と呼ばれるものです」

「俺が」

 公爵の声が、初めてわずかに掠れた。

「俺が、縫い手の家系だというのか」

「あなたはおそらく、幼い頃に自分の記憶のほとんどを失った。あるいは失わされた」オリカは続けた。「しかし記憶布はすべて消えるわけではない。最も根源的なもの、つまり血の記憶は、意識の届かない深層に縫い込まれて残り続ける。あなたが各地の記憶布を集めて体に縫い付けながら旅をしてきたのは、失われた自分を探す行為でもあったはずです。あなたの針と糸が、無意識に縫い手の血を呼び覚まそうとしていた」

 糸子は公爵の横顔を見つめた。

 彼の目は藍布に向けられていた。視線に温度がなかった。だからこそ、その温度のなさが語っていた。熱くなれないほど、混乱しているのだと。

 糸子はそっと公爵の手の近くに、自分の手を置いた。触れるわけではない。ただそこにある、という形で。

 公爵はちらりと視線を落とした。それだけで、また目を藍布に戻した。しかし手の震えが、少しだけ収まったような気がした。気のせいかもしれない。でも糸子には、そう感じられた。

「廃園は」公爵が言った。「あの廃園が、縫い手の家系と関わっているというのは」

「廃園はかつて、縫い手の庭と呼ばれていました」オリカは椅子に座り直し、両手を膝の上に重ねた。「縫界を最初に縫い合わせた者が、自らの記憶と感情を最も深く注ぎ込んだ場所です。だから辺境に散在する廃園は、単なる廃墟ではない。縫界の原初の記憶が眠っている場所です。あなたが廃園に引き寄せられるように旅をしてきたのも、おそらく偶然ではない」

 リィナが壁から体を離した。その顔は、見たことがないほど真剣だった。

「じゃあ、ガルデが廃園を消そうとしているのは」

「縫界の根を断とうとしているのです」オリカは答えた。「表向きは不採算の記憶布を整理する商業行為に見せかけながら、実際には縫い手の痕跡を消し去ろうとしている。縫界の起源が失われれば、誰も縫界の本来の姿を知ることができなくなる。記憶布の意味も、縫い合わせる技術の意味も、すべてガルデの定義に書き換えられる」

 糸子は奥歯を噛んだ。

 ガルデの顔が脳裏に浮かんだ。あの冷たい目と、記憶布を商品と呼ぶときの抑揚のない声。人の記憶を数字として読み上げる、あの静かな残酷さ。

 許せない、と思った。言葉にする前から、腹の底から湧いてくる確信として。

「公爵」

 糸子は声に出していた。

 公爵がゆっくりと振り向いた。

「あなたの名前は、その藍布の中にあると思う?」

 問いかけてから、余計なことを言ったかもしれないと思った。しかし公爵はすぐに目を逸らさなかった。少しの間、糸子の目を見ていた。

「さあ」彼は言った。「俺には読めない」

「私が読めるかどうか、試してもいい?」

 また沈黙が落ちた。

 今度はさっきより短かった。

「お前に読まれるくらいなら」公爵は微かに目を細めた。「まだましかもしれない」

 それは許可だと糸子は受け取った。

 オリカが何かを言いかけた。しかし糸子はすでに動いていた。内側から湧いてくる感覚に従って、指先に針と糸を呼び起こす。感情が形を持つとき、糸子の体はいつもこうなる。意識するより早く、手が動く。

 指先が藍布の縁にそっと触れた。

 瞬間、像が流れ込んだ。

 庭園。夜明けの光。泥だらけの小さな手。藍色の空の下で、誰かが泣いている声。糸を手繰る音。「行きなさい」という声。老いた声ではなく、若い女の声。名前を呼ぶように、しかし名前を言わずに、ただ「行きなさい」と。

 糸子は息を吐いた。

 像は霧のように散った。

「見えた?」リィナが聞いた。

「少しだけ」糸子は言った。「庭園と、誰かの声。でも名前は、まだ分からない」

 公爵は黙っていた。

 糸子は彼の横顔を見た。目が、わずかに揺れていた。それだけで十分だった。今の断片が、何かに触れたのだと分かった。

「でも」糸子は続けた。「絶対にある。あなたの名前は、ちゃんとそこにある」

 公爵は何も言わなかった。

 ただ外套を拾い上げて、また肩にかけた。釦を止める指が、さっきよりも落ち着いていた。

 オリカが窓の外に目をやった。夕暮れの光が室内に斜めに差し込み、埃を浮かび上がらせていた。

「急がなければなりません」老女は静かに言った。「ガルデの動きが速くなっている。次に狙われる廃園は、縫い手の記憶がもっとも色濃く残っている場所です。そこに辿り着く前に、あなたたちが先に行く必要がある」

「場所は」公爵が聞いた。

「縫界の最果て」オリカは答えた。「誰も地図を持たない、原初の庭園です」

 糸子は針を握りしめた。

 胸の中で何かが縫い合わされていく感覚があった。まだ形にならない、しかし確かに繋がりはじめている何か。公爵の藍布の中に眠る名前と、自分が売り払った名前と、縫界の最初の縫い目と。それらが同じ一本の糸で繋がれているような予感。

 だから進まなければいけない、と思った。

 名前がなくても、根拠がなくても。

 この予感だけを手がかりにして。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

23

公爵の名前の断片

緒方 縹

2026-06-05

前の話
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