小屋の中に満ちている空気は、どこか織物の匂いがした。糸と布と、古い記憶が幾重にも染み込んだような、甘くて重い匂い。糸子は膝を揃えてオリカの前に座り、その皺だらけの顔をじっと見つめた。

 オリカは急かされることもなく、まず細い指で手元の茶杯をゆっくりと持ち上げた。一口啜って、それからようやく目を開いた。瞳の色は藍染めの古布に似て、深くて底が見えない。

「どこから話すべきか」とオリカは低く呟いた。「始まりから、というのが一番誠実だろうね」

 リィナが正座のまま前のめりになった。「始まり、ってことは——縫界の?」

「そう。縫界の始まり。それを知らずして、ほつれの本質も見えない」

 公爵は壁際に立ったまま腕を組んでいた。その体に縫い付けられた無数の布切れが、小屋に差し込む夕陽に照らされてかすかに光っている。糸子は彼の横顔を一瞬だけ見た。感情を読ませない表情の奥で、何かが静かに息を潜めているような気がした。

「昔、一人の縫い手がいた」

 オリカが口を開くと、小屋の中の空気が変わった。何かが始まる、という予感のような張りが、糸子の皮膚の裏側を撫でた。

「その縫い手の名は、今は誰も知らない。縫界のどの記録にも残っていない。残っていないのではなく——残せなかった、というのが正しい」

「なぜですか」糸子は思わず口を挟んだ。

 オリカは糸子を見た。叱るでもなく、咎めるでもなく、ただ静かに。

「話の中で分かる。聞きなさい」

 糸子は唇を閉じた。

「その縫い手は、ある日気づいた。世界というものは本来、何もないところにある、ということに」オリカは茶杯を置いた。「虚無、と呼んでもいい。光も闇もなく、音も匂いもなく、記憶もなく、ただ何もない場所があった。その縫い手は、そこに針を刺した」

 リィナが小さく息を飲む音がした。

「最初の一刺しで、土が生まれた。二刺し目で、風が生まれた。縫い合わせるたびに山が、川が、空が形を持ち始めた。縫い手は縫い続けた。昼も夜も休まずに。なぜなら縫い目が止まると、世界はまたほどけてしまうから。縫い目の上に縫い目を重ね、記憶の布を継ぎ足し継ぎ足し、やがてこの縫界はひとつの大きな形を持つに至った」

 糸子の胸の中で何かが動いた。針と糸が、指の先でじりじりと疼く。それはいつも、大切な何かに触れたときに起こる感覚だった。

「でも」と糸子は言った。今度はオリカも止めなかった。「縫い手は、どうなったんですか」

「使ったんだよ」

 オリカの声は静かだったが、その静けさが重かった。

「世界を縫うために、何を使ったと思う? 布だけじゃない。糸だけじゃない。縫い手は自分の記憶を使った。一針ごとに、自分の一部を世界の中に織り込んでいった。幼い頃の記憶、愛した人の顔、笑った日の感触、泣いた夜の匂い——全部、全部、縫い目の中に溶かし込んだ。世界を形作るための、糊として」

 誰も喋らなかった。

 糸子はそのとき、妙なことを考えた。自分が名前の記憶を売ったとき、胸に空いた穴のことを。あれは単なる喪失ではなく、もしかしたら何かに変換されたのかもしれない、という気が、今初めてした。

「縫い手は最後に、自分の名前を縫い込んだ」オリカは続けた。「名前というのはね、人の核だ。それを世界の中心に縫い付けたとき、縫界は完成した。そして縫い手は——消えた。記憶を全て使い果たしたのだから、残るものが何もなかった」

「消えた」リィナが繰り返した。声がかすれていた。「自分を全部、世界にあげちゃったってこと?」

「そう」

 沈黙が落ちた。小屋の外で風が鳴いた。遠く、廃園のどこかで布がはためく音がした。

「じゃあ」公爵が口を開いた。壁際から動かないまま、低い声で。「大ほつれは」

「お前さんが聞くか」オリカは公爵を見た。二人の間に、糸子には読めない何かが流れた。「ああ、そうだ。大ほつれはな——縫い手の縫い目が、古くなっているということだ」

「経年劣化」糸子は呟いた。

「そう呼んでもいい。縫界が生まれてどれほどの時が経ったか、正確には誰も知らない。だが縫い手が縫い込んだ記憶は、有限だった。縫い目というのは永遠ではない。時間と摩擦で、どんな縫い目もやがてほつれる。縫い手がいなくなってから、縫界は誰も縫い直すことのないまま今日まで来た」

「だから」糸子は声が上擦るのを感じた。「辺境から崩れていってるんですね。古い縫い目のあるところから」

「賢い子だ」

 褒められたのに、糸子は少しも嬉しくなかった。それどころか、胸の奥に冷たい水が満ちていくような感覚があった。世界は崩れている。崩れているのは誰かの悪意のせいでも、不運のせいでもなく——ただ、縫い手がいないからだ。誰も縫い直していないからだ。

「ガルデが記憶布を集めているのも」リィナが呟いた。いつもの軽い調子が、今は欠片もない。「縫い目が足りなくなってきてるから、価値が上がってるってこと?」

「あの男は賢い。だが使い方を間違えている」オリカは吐き捨てるように言った。「記憶布を独占して何になる。縫い手がいなければ、布だけ集めても世界は縫えない」

「縫い手」糸子は言葉を転がした。「原初の縫い手みたいな人が、また現れるってこと、あるんですか」

 オリカはしばらく黙った。

 その沈黙が長くて、糸子は背筋に緊張が走るのを覚えた。

「縫い手の力というのはな」とオリカはやがて言った。「生まれつきのものだ。感情が針と糸に乗り移るような、そういう体の作りをした者にしか扱えない」

 糸子は自分の手を見た。指先が、じわりと熱い。

 オリカが糸子を見ていた。まっすぐに、迷いなく。

「お前さんに話すべきことがある、と言ったのを覚えているね」

「……はい」

「名前を売った話をしよう、とは言っていない」オリカはゆっくりと言った。「お前さんが名前を売る前から、お前さんについて話すべきことが、私にはある」

 糸子の心臓が、一拍、強く跳ねた。

 公爵が壁から離れた。リィナが息を止めた。

「お前さんの指が針を持つとき、世界が動く。それはただの体質じゃない」オリカの藍色の瞳が、まっすぐ糸子の目を捉えた。「お前さんは知らないだろうが、縫界の縫い目の一部は——お前さんの記憶でできている」

 声が出なかった。

 縫界の、縫い目の一部が、自分の記憶でできている。

 それはどういうことか、糸子の頭がまだ追いつかないうちに、オリカは静かに続けた。

「縫い手は消える前に、後継ぎを用意した。自分の代わりに世界を縫える者を。その血は細く細く受け継がれ、何代もの時を経て——今ここにいる」

 小屋の外の風が、強くなった。廃園の布がはためく音が、遠くで波のように繰り返されている。

 糸子は自分の手のひらを見つめた。何度も針で刺してきた指先の、小さな傷の跡を。感情が溢れるとき、いつもここから何かが始まった。

 それは、自分の中に流れているものが世界と繋がっているから——ということなのか。

「待って」糸子はようやく声を出した。「待ってください。それって、つまり——私が、縫い直せるってこと、ですか。縫界を」

 オリカは答えなかった。

 ただ、その沈黙の重さが、答えだった。

 糸子の胸の中で、興奮と恐怖が同時に渦を巻いた。世界を縫い直す。原初の縫い手がそうしたように、自分の記憶を糸にして、ほつれた縫い目を塞いでいく。そして——消える。

 名前を既に売った自分が、記憶を全て使い果たしたら、何が残るというのか。

 隣で公爵が、かすかに息を吸う音がした。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

22

オリカの語る縫界の歴史

緒方 縹

2026-06-04

前の話
第22話 オリカの語る縫界の歴史 - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版