蝋燭の火が三つ、卓の上で揺れていた。

 オリカの小屋は外から見るよりずっと広く、天井まで届く棚には色とりどりの布の束が隙間なく詰まっていた。赤みがかった古い記憶、透き通るような白い断片、指先で触れれば崩れそうなほど薄い灰色の布切れ。縫界のどこかで生きた誰かの、もう誰も覚えていない時間たちが、ここで静かに息をしていた。

 糸子は卓の前の椅子に座らされ、両手を膝の上に置いたまま、オリカに見つめられていた。

 老女の目は深く、暗く、まるで古い井戸の底のようだった。じっと覗き込まれると、自分の中のどこか遠い部分まで見透かされているような気がして、糸子は思わず視線を逸らしそうになる。それをぐっと堪えて、正面を向き続けた。

「手を見せなさい」

 オリカが低く言った。糸子は素直に両手を差し出した。

 細い指がゆっくりと糸子の掌を包む。乾いて、節くれだった指先が、皮膚の上を滑るように動いた。ただ触れているだけのはずなのに、糸子は奇妙な感覚を覚えた。皮膚の下に眠っていた何かが、引き出されようとしているような。

 公爵は壁際に立ち、腕を組んで沈黙していた。リィナは扉の近くで膝を抱えて床に座り、珍しく口を閉じていた。

「……ふうん」

 オリカが短く言った。眉が寄り、しかしその目は穏やかなままだった。

「少し、痛むかもしれない。いいね」

 同意を待たずに、老女の指に力がこもった。

 次の瞬間、糸子の掌の中心から、熱が走った。

 痛みとも違う。光が漏れるような、それとも何かが裂けるような——針を布に刺す瞬間の、あの独特の抵抗感が、皮膚の内側から広がっていく。糸子は息を呑んだ。指先から何かが滲み出す感覚。見れば、掌の上に細い光の糸が一本、空中に伸びていた。

 銀色ではなかった。藍だった。

 公爵が壁から身を剥がすように前へ出た。リィナが「あ」と小声を漏らした。

 藍色の糸は揺れながら、しかし確かに存在していた。オリカはそれを指でそっとつまみ、灯りにかざして検分するように眺めた。

「やはり」と老女は言った。

「やはり、とは」

 公爵が問うた。声は平静を保っていたが、糸子には分かった。彼の胸元の藍布が、かすかに震えていた。

「この娘の体質のことは、ずっと気になっていた」オリカは糸子の手を離さぬまま、言葉を続けた。「感情が針と糸に乗り移る、というのはな、縫界広しといえど、そう簡単に現れる性質ではない。縫い師は大勢いる。布を読む者も、記憶を紡ぐ者も。だが感情そのものが針に宿る者は——」

 老女は一度言葉を切り、糸子の顔をまっすぐに見た。

「縫界を最初に縫い上げた者、原初の縫い手と呼ばれた系譜の者だけだ」

 静寂が、小屋ごと固まったように思えた。

 糸子は言葉の意味を頭の中でゆっくりと並べ直そうとした。原初の縫い手。縫界を縫い上げた。系譜。自分が。

「……わたしが」

 声が、掠れた。

「あなたが、その血を引いている」

 断言だった。老女の声には迷いがなかった。

 糸子は自分の掌を見た。藍の糸はもう消えていたが、熱だけがまだそこに残っていた。見慣れた自分の手。傷だらけで、爪の根元にいつも糸くずが挟まっている、どこにでもある手。これが、縫界の始まりに繋がっているというのか。

「でも、わたしは自分の名前も知らない。何者かも分からない。それなのに——」

「名前を売ったからだよ」

 オリカが静かに遮った。

「分かるかい。名前というのは、縫界においては単なる呼び名ではない。記憶の根っこだ。自分が誰であるかを縫い留めておく、一番太い糸だ。その糸を売り払ったとき、あなたの力は繋ぎ止めるものを失った」

 糸子の指先が冷えていく気がした。

「封印、されたということですか」

「半分はそうだ」とオリカは言った。「だが半分は逆だ。名前があれば、力は制御される。名前がなければ、力は本人さえ気づかぬうちに滲み出す。あなたがこれまで、感情が暴走するたびに針が動いたのは——そういうことだ。制御する軸を失ったまま、力だけが残された」

 リィナが立ち上がった。「待って。じゃあ糸子ちゃんがずっと不安定だったのって、名前を売ったせいだったってこと?」

「売ったことで力の核が揺らいだ。力が揺らいだことで、感情との境界も溶けた。鶏が先か卵が先かという話ではあるが」

 糸子は俯いた。

 思い出す。旅のあいだ、何度も不意に針が動いた瞬間を。悲しいとも怒りともつかない気持ちがこみ上げたとき、糸が勝手に空を縫ったことを。あれは自分が制御できていなかったのではなく、制御するための「自分」が欠けていたから、だというのか。

 名前を売った日のことは、当然覚えていない。

 でも、その前の記憶も、後の記憶も、ひどくぼんやりしている。まるで水に濡れた布のように、輪郭が滲んで、掴もうとすると崩れる。自分がどこで生まれ、誰に育てられ、なぜ名前を売るほど追い詰められたのか——何も残っていない。

「わたしは」と糸子は言った。声が想像よりずっと小さかった。「わたしは、何者なんですか」

 問いかけは老女に向いていたが、どこか遠くにも向いていた。

 オリカはすぐに答えなかった。蝋燭の灯りが揺れた。

「それを知るには、原初の庭園に行くしかない」とオリカはやがて言った。「縫界が最初に縫われた場所には、記録が残っている。縫い手の系譜も、各地に散った血の行方も。あなた自身のことも」

「原初の庭園に」

「ただ」老女は一度目を細めた。「あなたが名前を持たないまま、あの場所に近づけば——力はさらに不安定になる。あの庭は原初の記憶が溢れている。名前のない者が踏み込めば、自分と庭の境界が溶けかねない」

「溶ける、というのは」

「あなたが、庭に縫い込まれる」

 公爵が動いた。一歩、糸子の傍に近づいた。それだけだった。言葉はなかった。ただ、気配が近くなった。

 糸子は顔を上げて、老女を見た。

「それでも行きます」

「知っていた」とオリカは言った。皺だらけの顔に、かすかに笑みのようなものが浮かんだ。「あなたはそういう娘だ。感情が先に動く」

「欠点ですか」

「縫い手というのは、そういうものだよ」

 老女は立ち上がり、棚の一つから小さな布の包みを取り出した。糸子の手に乗せる。開くと、中には針が一本入っていた。見たことのない形をしていた。柄の部分が細い骨のようで、針先だけがほのかに藍色に光っている。

「原初の縫い手が残したとされる道具の一つだ。贋物かもしれないが——あなたが持てば、分かる」

 糸子が針を指で触れた瞬間、熱が走った。

 今度は掌の中だけではなかった。胸の奥から、喉の奥から、まるで眠っていた何かが目を覚ますような熱が、全身に広がった。針先の藍色の光が、少しだけ強くなった。

 本物だと、糸子は思った。理由などなかった。ただ、分かった。

「……これがわたしのものだと」

「そうかもしれない。そうでないかもしれない」

 老女は再び椅子に座り、目を閉じた。「いずれにせよ、急ぎなさい。ガルデは動いている。原初の庭園に辿り着かれる前に、記録ごと消そうとするだろう」

 リィナが「じゃあ急がなきゃじゃん」と言って腰を上げた。いつも通りの軽い口調だったが、目だけは笑っていなかった。

 糸子は針を握ったまま、立ち上がった。

 自分が誰かを知らない。名前も、生まれも、家族も。

 でも、この熱だけは本物だった。掌の中で、胸の奥で、確かに脈打っている。誰かが遠い昔に縫い始めた何かが、今もここで、続いている。

 それが何を意味するのか、糸子にはまだ分からない。

 ただ——知りたいと思った。知るために、足を踏み出せると思った。

 それだけで、今は十分だった。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

24

糸子の体質の秘密

緒方 縹

2026-06-06

前の話
第24話 糸子の体質の秘密 - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版