荒野に風が吹くとき、布の切れ端が舞う。

 古縫街道を離れてから半日。草縫いの谷で一夜を明かした三人は、地図にも名前のない道を辿っていた。足元の土は硬く、踏むたびに乾いた音を立てた。大地の表面には無数の縫い目が走っており、それは遠目には無数の皺のように見えた。近づいて初めてわかる。これは誰かが縫い合わせた跡だ。大昔に、丁寧な手で。

 糸子は歩きながら足元を見つめていた。縫い目の間から、ごく薄い布地がのぞいている。半透明で、光の加減によっては淡い色を帯びる。誰かの記憶が固まってできた、この世界の地盤そのものだ。

「ねえ」と糸子は前を行く公爵の背中に声をかけた。「昨夜、庭の話をしてたでしょう。あれって、どんな庭だったの」

 公爵は歩みを止めなかった。その背中が少しだけ緊張したように見えた。継ぎ接ぎの布地が、風に揺れる。

「わからない」

「わからない、って」

「覚えていないから語れない。あの夜に漏れた言葉は、記憶というより、染みのようなものだ」

 糸子は少し考えてから、「染み」と繰り返した。布に染み込んだ何か。洗っても落ちない、でも形もない。そういうもの。

 リィナが二人の後ろから口を挟んだ。「染みもね、縫界じゃ立派な記憶の欠片よ。形になれなかっただけで、消えてるわけじゃない」

 彼女の声は軽快だったが、どこか静かな重みを帯びていた。糸子は振り向いてリィナを見た。リィナは笑っていたが、その目は遠くを見ていた。

 それきり三人は黙って歩いた。

   *

 小屋が見えたのは、空が夕色に染まりはじめた頃だった。

 周囲に何もない荒野の中、ぽつんと建っている。壁は白っぽい布地で覆われており、縫い目が縦横に走っている。屋根もまた布でできており、重ねられた何層もの記憶布が、長年の風雨で凝縮して板のように固まっていた。小屋の前には枯れた草が数本、力なく揺れている。

 だが、糸子がまず目を引かれたのは小屋ではなかった。

 小屋を中心として、地面に無数の縫い目が放射状に伸びていた。まるで小屋が、縫界そのものの中心点であるかのように。縫い目は細く、しかし深く、地の底まで続くような存在感があった。糸子は自分の胸に下げている針と糸が、微かに震えるのを感じた。

「ここが」とリィナが言った。「縫界の縫い目が最も集中する場所」

 公爵は無言で小屋を見つめていた。その横顔には、糸子がこれまで見たことのない種類の緊張があった。読めない表情。でも確かに、何かが揺れている。

 糸子は一歩、踏み出した。

 小屋のドアは布地で作られており、厚みがあった。近づくと、その布地にも細かな縫い目がびっしりと施されているのがわかる。縫い目の一つ一つが、何かを封じているかのように整然としていた。

 糸子がドアに手を伸ばした瞬間、内側から声がした。

「入りなさい」

 老いた声だった。しかし弱くはなかった。大地の深いところから湧いてくるような、静かで確固とした声。

 三人は顔を見合わせた。リィナが肩をすくめる。公爵の目が細くなる。糸子は布のドアをそっと押し開けた。

   *

 内側は、外から想像するよりずっと広かった。

 いや、広いというより、深い、という感覚が近かった。壁一面に棚が設けられており、そこには大小さまざまな布が折り畳まれて並んでいた。どれも色が違う。透き通るような白から、くすんだ赤、深い藍、黄ばんだ老いた布まで。棚の前には細い通路があり、その奥に小さな机と椅子があった。

 椅子に座っていたのは、老女だった。

 背中が丸く、白髪が長く垂れている。着ているものは継ぎ接ぎの作業着で、指には無数の針の痕があった。老女は机の上に布地を広げ、針仕事の途中だったようだ。しかし三人が入ってきた瞬間、手を止め、顔を上げた。

 その目が、公爵に向いた。

 老女の表情が変わった。糸子にはうまく言葉にできない変化だった。悲しみとも、安堵とも、あるいは後悔とも取れる、複雑な皺が顔全体を動かした。老女はしばらく公爵を見つめ、それから目を閉じた。

 次に目が開いたとき、その視線は糸子に向かっていた。

 老女は目を細めた。今度の表情は、先ほどとは違う。何か懐かしいものを見るような、柔らかな、しかしどこか切ない目だった。

「来ると思っていた」

 老女の声が小屋の中に満ちた。

 静寂が続いた。風が布の壁を揺らす音がした。糸子は息を呑んだ。

「あなたが、縫守のオリカ」とリィナが言った。確認するような、でも確信のある口調で。

「そうだ」と老女は答えた。「そして、あんたたちが来ることは、ずいぶん前から布に刻まれていた」

「布に、刻まれていた」と糸子は繰り返した。「どういうこと」

 オリカは机の上の布地をそっと畳んだ。丁寧な手つきだった。長年のその作業が体に染み込んでいる、そういう動きだった。

「縫守の仕事は、縫界の縫い目を読むことだ。縫い目は記憶でできている。記憶は過去だけでなく、未来の痕跡をも宿すことがある。縫い目が一点に集まるとき、それは何かが起きる前触れだ。この場所に縫い目が集まりはじめたのは、三年前のことだよ」

「三年前」と公爵が口を開いた。低い声だった。「それは」

「あんたが動きはじめた頃と一致する」とオリカは静かに言った。「継ぎ接ぎの縫人が、廃園を歩きはじめた頃と」

 公爵は何も言わなかった。糸子はちらりと公爵を見た。彼は表情を変えていなかった。しかし糸子には、その沈黙の質がわかる気がした。言葉にできない問いが、彼の中に積み重なっている。

 オリカはゆっくりと立ち上がった。杖はなかったが、立ち上がる動きは確かだった。彼女は棚の前まで歩き、一枚の布を取り出した。薄い布で、光を透かすと何か模様のようなものが見える。

「これを見なさい」

 オリカが布を広げた。

 その瞬間、糸子の針と糸が激しく震えた。胸の奥に何かが引っかかるような感覚。布の上には、縫い目が複雑な文様を描いていた。それは地図のようにも、文字のようにも見えた。糸子にはその意味が読めなかった。でも、何かを知っている気がした。もどかしい既視感。

「あんたたちの行き先が、ここに縫われている」とオリカは言った。「縫界の終わりと始まりの場所が」

「原初の縫い台」とリィナが囁くように言った。

 オリカは頷いた。「そこに行かなければならない。でも、それだけではない」

 老女の視線が再び糸子に向いた。今度は、もっと真剣な目だった。糸子は思わず背筋を伸ばした。

「あんた、名前がないね」

 告げるでもなく、確かめるでもなく、ただ事実として口にするような言い方だった。糸子は頷いた。

「売った」と糸子は言った。「何のために売ったのかも、今は思い出せないけど」

 オリカはしばらく糸子を見つめてから、小さく息をついた。

「そのことについても、話すべきことがある」

 老女の声には、何か重いものが含まれていた。ためらいでも、隠しごとでもなく、もっと根深い何か。その言葉は、宣言のように小屋の中に残った。

 糸子は感じた。これから聞くことは、きっと自分の知らない自分に繋がっている。怖くないと言えば嘘になる。でも、針が静かに温かくなっているのも感じる。まるで、ここが正しい場所だと教えるように。

 外では夜が近づいていた。荒野を渡る風が、布の壁を低く鳴らした。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

21

縫守のオリカとの対面

緒方 縹

2026-06-03

前の話
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