嵐は、夜の深いところから来た。
夕刻には東の空が黄みを帯び、潮の匂いが普段より二割ほど濃く感じられた。汐音はそれだけで、今夜の荒れ方がただごとではないと知った。風の運ぶ塩の粒子が肌を叩く感触、波音の周期が数分おきに微妙にずれていくこと——島で育った身体は、そういう細かな変化を言葉より先に受け取るようになっていた。
遙は夕食を半分ほど残し、早々に自室へ引き取った。
「戸締まりを」と短く言い残した声は、いつもより乾いていた。汐音は黙って頷き、燈台の外壁に面した窓という窓の掛け金を確かめながら回った。鉄の感触が指先に冷たかった。
風が来たのは夜半過ぎだった。
最初は遠く、低く——海の底を転がる岩のような音だった。それがみるみる近づき、燈台の石壁が低い唸りを発し始めた頃には、窓の外は真っ白な水飛沫と闇が混ざり合って何も見えなくなっていた。
汐音は燈台の灯室直下にある機械室の床に座り込んでいた。嵐の夜はいつもそうしていた。揺れる家屋より、数百トンの石組みで造られたこの場所のほうが落ち着いたからだ。ランプの代わりに電池式の小さな照明をひとつ点し、膝の上に開いた本に視線を落としていたが、文字はほとんど頭に入らなかった。
遙の咳の音が、二枚の扉と石の壁を越えてときおり聴こえてきた。
汐音は本を閉じた。
そのときだった。
振動が来たのは、足の裏からだった。
嵐の振動とは明らかに違った。嵐は不規則で、濁っていて、どこか乱暴だ。しかしこの振動には、何か秩序があった。床を通して伝わってくる細かな波が、長短のリズムを繰り返していた。三つ、ひとつ、三つ——また三つ、ひとつ、三つ。
汐音は照明を消した。
暗闇の中で、壁が光っていた。
いや、光というより、微かに発光している、という言い方のほうが近い。石の継ぎ目のひとつ——六年前にも同じ場所だったと汐音は直感した——から、青白い明滅が滲んでいた。不規則なようでいて、よく見ると振動のリズムと同期していた。
汐音は立ち上がり、壁に近づいた。
触れようとして、一瞬躊躇した。六年前、幼い自分はその光を見てただ凍りついていた。怖かったのか、怖くなかったのか、今となっては判然としない。ただ全身の毛が逆立つような、静電気に似た感覚だけを覚えている。
指先が石に触れた。
冷たかった。
しかし、振動はそこにあった。確かに、確かに、壁の奥で何かが動いていた。
三つ、ひとつ、三つ。間。ひとつ、ひとつ、五つ。間。三つ——
音と光と振動が絡まり合いながら、汐音の身体の中へ流れ込んでくるようだった。普段から音のパターンを読む感覚を持つ汐音にとって、そのリズムは奇妙なほど自然に「聴こえた」。海の波を聴くように、遙の呼吸を数えるように。
そして汐音は息を呑んだ。
頭の中で、何かが形を結び始めた。
パターンが、文字に見えた。
言語として認識したのではない。そんな理性的な処理ではなかった。もっと根元的な感覚として——蟻が甘い匂いを嗅ぎつけるように、猫が遠い足音に耳を立てるように——信号の連なりが、意味を持とうとしていると、身体が知ったのだ。
三つの短い光。ひとつの長い振動。三つの短い光。
それは、名前を呼ぶ動作に似ていた。
汐音は壁に額をつけた。石の冷たさが額から首筋へ伝わった。目を閉じると、光のパターンが瞼の裏で繰り返した。受け取ることしかできなかった。返す言葉も、返す手段も、持っていなかった。でも、それでいいような気がした。今夜は聴くだけでいい、と何かが言っていた。
どれほど時間が過ぎたのかわからなかった。
気がつくと、嵐の音が遠くなっていた。壁の明滅も振動もいつの間にか止んでいて、石は黙って、何事もなかったように冷えていた。汐音は手のひらを壁から離し、照明を点した。
自分の影が壁に落ちた。
掌に目を落とすと、細かく震えていた。
恐怖ではなかった。どちらかといえば、これは昂揚に近いものだ——と汐音は思った。しかしそれを認めることが、何かとても重大な扉を開けることになる気がして、汐音はその感情を胸の奥に仕舞い込み、代わりに小さく息を吐いた。
朝になったら、遙に話す。
そう決めて、照明を消し、床に横になった。嵐の尾が薄れた夜の海が、低く唸っていた。
*
夜明けは白かった。
嵐が去った空に、分厚い雲が居座っていた。大気汚染によって恒久的に霞んでいるこの島の空は、嵐の翌朝でさえ晴れることがなかった。ただ雲の種類が変わるだけだ。汐音はそれを知っていて、しかし毎朝のように窓から空を見上げる癖が抜けなかった。
台所で湯を沸かし、遙の分の粥を用意した。
しかし遙は自室から出てこなかった。
扉を叩いた。返事がなかった。もう一度叩くと、低い、掠れた声が返ってきた。
「……入れ」
遙は布団から上体を起こそうとして、うまくできなかった。汐音が膝をついて肩を支えると、遙は抗わずにもたれた。それだけで汐音の喉が詰まった。この人がこんなふうに寄り掛かるのを許したのは、初めてのことだった。
「粥を」
「後でいい」
遙は汐音の顔をじっと見た。ひどく老いた目だ、と汐音は思った。六年前から老いていたが、今朝はそれ以上に、何かが削れているように見えた。
「聴こえたか」
その一言は、問いかけではなかった。確認だった。
汐音は頷いた。
遙の目から力が抜けた。安堵とも疲労ともつかない何かが滲んで、老人の表情を崩した。汐音がこれまで見た中で、最も遙が無防備に見えた瞬間だった。
「そうか」
それきり、遙は目を閉じた。
支えていた体重が急に増した。汐音は慌てて遙を横にし、布団を直した。呼吸はある。熱もある。しかし眠ったのか意識を失ったのかの境が判然とせず、汐音はその場を動けなかった。
「遙さん」
呼んでも、応答はなかった。
汐音は遙の手の甲に自分の手を重ねた。骨ばった、節くれた手だった。三十年以上この燈台を守り続けてきた手だった。汐音がこの島へ来た日、波止場でこの手が差し伸べられたことを覚えている。まだ五つだった汐音は、その手の大きさに圧倒された。
聴こえたか。
遙の声が頭の中で繰り返された。
あの問いの意味を遙は知っていた。壁の中の振動を、光のパターンを、知っていた。ならばどれほど知っていたのか。いつから知っていたのか。六年前の地下室の発光も、今夜の信号も——汐音だけが受け取ったのではなく、遙もずっと知っていたのか。
問いかけたい言葉が喉に溜まっていったが、遙は答えない場所へ行ってしまっていた。
汐音は立ち上がり、窓の外を見た。
嵐に荒らされた庭に、朝の鈍い光が差していた。草が倒れ、砂利が飛び散り、それでも燈台の石壁は何事もなかったように白く立っていた。三百年、ここに立ち続けてきた壁。その中に何かが眠っていて、昨夜の嵐に揺り起こされたように、目を覚ました。
そして汐音を、呼んだ。
名前を呼ぶ動作に似ていた——壁に額をつけたときに感じたことを、汐音はもう一度思い出した。
自分は呼ばれたのだ。
その確信が胸に満ちた瞬間、汐音は同時に、ひどく孤独だと気づいた。訊けない。訊ける人間が、今この島にはいない。遙は倒れ、海の向こうの陸とは通信設備の古さゆえに繋がりが薄い。
汐音は机の引き出しを開けた。
昨夜のうちに書き留めておいた紙片がそこにあった。瞼の裏で繰り返した光のパターンを、起き上がれないままの暗闇の中で指を動かして空書きし、それを朝になって紙に写したものだ。記号でも文字でもない、ただの点と線の羅列に見える。しかし汐音には、それが何かを言おうとしていると思えてならなかった。
壁の中で、何かが目覚めた。
それが何なのかを知る前に、遙が倒れた。
汐音は紙片を折り畳んで、胸ポケットに仕舞った。冷えた空気の中で、燈台の壁がまた微かに、震えた気がした。