廊下の端で、環境奈は足を止めた。
「ここから先は、私も行けない」
短くそう言って、彼女は壁の一点を指差した。石材の継ぎ目に紛れた小さな読取装置。古い建築様式に意図的に溶け込ませてある。目を凝らさなければ見逃してしまうような、密やかな番犬だった。
「通用コードは教えた通り。十二秒以内に次のセンサーを通過しないと記録に残る。あとは……頑張って」
環境奈の声には、励ましとも諦めとも取れる色が混じっていた。汐音は小さく頷き、透真の背中に続いた。
記録庫は地下二層にあった。正確に言えば、旧記録庫だ。機関が現在使用しているデータストレージとは別に、創設時代の物理記録を保存した区画が地下深くに眠っている。環境奈の話によれば、ここ十年で誰もアクセスしていないという。
冷気が足元から這い上がってくる。湿り気を帯びた空気が、三百年分の沈黙を含んでいるようだった。
「センサー、クリア」
透真が短く呼吸を整えながら言った。スマートグラスの端に光点が一瞬灯り、消える。汐音は時間を数えていた。心拍でなく、呼吸の周期で。燈台の地下で遙が教えてくれた数え方——波の満ち引きを内側に飼う方法。
重い扉が音もなく開いた。
息が止まった。
記録庫は、汐音が想像していたような無機質な保管室ではなかった。天井まで届く棚が幾列も並び、そこに収められた磁気テープ、光学ディスク、さらに古い時代の紙媒体の束が、時代の地層のように積み重なっていた。黄ばんだラベルに手書きされた年号と番号。埃が薄く積もっているが、保存状態は驚くほど良好だった。温度と湿度が自動で管理されているのだろう、空気に甘い化学的な匂いが漂っている。
「三百年分か」
透真がそっと呟く。彼がこんな声を出すのは珍しかった。飄々とした仮面の下に、何かが揺れている。
汐音は棚の前を歩きながら、ラベルを目で追った。西暦年号が古くなるにつれ、ラベルの書体が変わっていく。やがて、ある一列の棚の前で汐音の足が止まった。
封印記録。
黒いテープで区切られた一区画。ラベルには赤い印があり、アクセス制限のシンボルが貼られている。しかし封印は、施されていなかった。あるいは、かつて施されていたものが——剥がされた跡があった。
「透真」
汐音が初めて口を開いた。透真がすぐに隣に来る。
棚の中から、汐音は慎重に一冊の綴りを取り出した。紙でなく、薄い合成素材のシートが束ねられている。三百二年前の日付。タイトルは——「星語り封印に関する経緯報告書(機密指定・最高位)」。
透真がポータブルスキャナを取り出した。無言で汐音に目配せし、汐音が頷く。
二人は記録を読み始めた。
最初の数ページは、技術的な記述だった。宇宙との交信プロトコル、信号の周波数帯域、受信確認の記録。汐音にとって、その数字の羅列はどこか懐かしかった。燈台の地下で遙が見せてくれた手書きのメモと、構造が似ていたからだ。
やがて報告書は、事件の経緯に移った。
三百年前。最後の交信が行われた夜。記録によれば、受信者は一人の少女だったという。名前は塗り潰されていた。丁寧に、念入りに。しかし塗り潰しの端から、ひと文字だけが滲んで読めた。
「シ」
汐音は息を詰めた。
記録は続く。少女が受信した信号の内容は「人類の在処を宇宙に伝える座標情報」だったと記述されている。そして機関の前身となる組織はその夜、緊急会議を開き、翌朝には封印の決定を下した。理由——「未知の発信源への応答は、人類絶滅のリスクに直結する可能性がある」。
汐音はクロエの声を思い出した。シンポジウムで彼女が語った恐れ。それはここから来ていたのだ。三百年前の、この記録から。
だが、それだけではなかった。
次のページで、記録は突然途切れた。
途切れたのではない、と汐音は気づいた。削除されていた。物理的に。シートが切り取られている。その断面は鋭く、道具を使って切除された痕跡が明らかだった。数ページ分が、きれいに消えている。
「核心部分だ」
透真の声が低くなった。
「少女がその夜、何を聞いたのか。星が何を言ったのか。そして封印された後、彼女がどうなったのか——全部、ここから消えてる」
汐音は棚に視線を走らせた。同じ区画の別の綴りを引き出す。年代順に並んだ記録を幾冊もめくり、削除の痕跡を確認していく。どれも同じだった。核心に触れる前に、切り取られ、あるいは上書きされている。
そして透真が、ある綴りの裏表紙に貼られた付箋を発見した。
薄く変色した付箋。手書きの文字で、一行だけ書かれている。
「削除命令承認——イツキ・カガミヤ」
透真が固まった。汐音は彼の顔を見た。血の気が引いている。
「透真」
「……知ってる名前だ」
透真はゆっくりと言葉を選ぶように答えた。
「クロエ所長の前任者。三十年前まで機関の長だった人物。僕が研究機関に入ったとき、すでに引退していたけれど——創設者に次ぐ影響力を持っていたと言われてる」
「その人が、削除した」
「命令した、少なくとも」
汐音は付箋を見つめた。几帳面な筆跡。承認の日付は三十七年前。つまり削除は三百年前ではなく、三十七年前に行われた。誰かが、その時代に再びこの記録庫に入り、手作業で証拠を切り取ったのだ。
なぜ今になって。なぜ三百年も放置してから。
汐音の中で、何かが組み上がっていく。パズルのピースが合わさる感覚ではなく、もっと体感的な——波形が重なる瞬間の、あの震え。
三十七年前。それはいつだ。
汐音は生まれていない。遙と出会っていない。燈台はすでにそこにあった。遙はすでに守っていた。
遙が汐音を引き取ったのは、十七年前。
では、その二十年の間に、何があったのか。
「汐音」
透真が静かに言った。スキャナが振動している。タイムリミットが近い。
「これを持ち出すのは無理だ。でもデータは取った。今夜中にここを出ないと——」
汐音は綴りをそっと棚に戻した。その手が、微かに震えていることに気づいた。怒りなのか、恐れなのか、自分でもわからなかった。
ただひとつだけ確かなことがあった。
クロエは知っている。前任者が何をしたか、知っている。そしてその事実を引き継ぎながら、クロエは「封印は正しい」と信じているか、あるいは——信じているふりをしているかのどちらかだ。
記録庫の扉を背にしながら、汐音は天井を見上げた。コンクリートの向こうに海があり、海の向こうに島があり、島の突端に燈台がある。燈台の地下に、セノがいる。
セノ。
お前の声が録音された場所は、ここだったのかもしれない。
三百年前、あの少女が聴いた声を、今度は私が——。
「行こう」
汐音は先に歩き始めた。透真が続く。二人の影が廊下の冷気に溶け込んでいく。
記録庫の扉が静かに閉まった。その音は波の引き際に似ていた。何かが始まり、何かが終わる、あの音に。