シンポジウムの会場となった研究都市の大会議棟は、外観だけを見れば過去の栄光の残滓のようだった。廃れかけた港湾都市の端に聳えるガラス張りの塔は、汚れた大気に半ば溶け込んで、くすんだ琥珀色に見えた。汐音は透真に手渡された偽造の聴講証を首から下げ、受付の列に並びながら、その塔の頂部をぼんやりと仰いだ。
「緊張してる?」
透真が耳元で囁いた。髪を分け直し、縁の細い眼鏡をかけた彼は、いつもと違う研究者然とした出で立ちをしていた。汐音は首を横に振った。緊張というより、これから何かが変わるという予感が、皮膚の下にじっとり溜まっているような感覚だった。
「嘘つき。耳、赤い」
「黙ってて」
汐音は透真の二の腕を軽く肘で突いた。並んだまま、二人は順番に聴講証をかざし、薄暗いホールへ滑り込んだ。
会場はすでに七割ほど埋まっていた。参加者の大半は研究機関の所属研究員と見られるが、市民向けに公開された枠もあるとみえて、地味な服装の老人や、学生らしい若者の姿も混じっていた。前方の壇上には白い演台が一台、スクリーンが三面、そして演説者の到着を待つ空の椅子が一脚。汐音は透真と並んで、なるべく後方の席に腰を下ろした。
開演を告げる電子音が鳴った。照明がわずかに落ちた。
拍手が湧き起こる前に、汐音はその人物を目で捉えた。
瑠璃宮クロエ。
写真では何度も確認していた顔だった。しかし実物は、写真よりずっと——静かだった。
年齢は五十代だろうか。白に近い銀髪を丁寧に後ろへ束ね、深い藍色のジャケットを纏っている。歩き方が音を立てない。長い廊下を渡るように、ただ壇上へ近づいてきて、演台の前で立ち止まり、聴衆を見渡した。笑顔だった。刃のない、穏やかな笑顔。
拍手が始まったのはその後だった。
「ご来場の皆さま、ようこそ」
声は低く、よく通った。マイクの助けなどいらなそうな声だった。
「本日の公開講演のテーマは、皆さんもご存じのとおり、星語りの問題です。私はこの問題に三十年を費やしてきました。今日お話しすることは、その三十年が私に教えてくれたことの、ほんの断片に過ぎません」
謙遜ではない、と汐音は思った。そう言いながら、彼女の目は揺れていない。三十年という年月を、誰かに誇るために言っているのではなく、ただ事実として提示している目だった。
「星語りとは何か。皆さんの中には、それを失われたロマンとして語る方もいます。あるいは人類の起源と宇宙を繋ぐ壮大な可能性として。それは間違いではありません。かつて存在したことは、事実です」
スクリーンに古い図が投影された。波形、座標、数式の羅列。汐音には一瞬でわかった——あれは、星語りの信号のパターン解析図だ。遙の手書きメモに描かれていたものと、根を同じくする形。
「しかし」とクロエは言った。声の温度がわずかだけ下がった。「私たちが問わなければならないのは、それが現在においても人類にとって善であるか、です」
汐音の手が膝の上で握られた。
「三百年前、星語りの契約が途絶えた理由を、私たちは長らく『受信者の消失』と説明してきました。それは表面的には正しい。しかし私が調べるほど明らかになったのは、契約の途絶がある種の——保護であった可能性です」
静寂が広がった。
「星語りの受信者は、信号を受け取るだけではありません。彼らは、信号を返すことができる。対話をすることができる。そしてその対話は、相手——宇宙の向こうの何者か——に、私たちの存在を精確に知らせます。どこに、どれほどの数が、どのような状態で生きているかを」
透真が身じろぎした。汐音は横目で見た。彼の顔には、珍しく笑いが消えていた。
「その情報が、過去においてどう使われたか。資料は断片的です。しかし私が最も恐れるのは、その続きです。三百年の沈黙の末に再び声を上げることで、私たちが知らせるのは、こうです——まだここにいます、と。弱体化した惑星の上で、まだ息をしています、と」
クロエはひと呼吸置いた。スクリーンの図が消え、暗い背景だけが残った。
「星語りの復活は、人類に宇宙の詩を取り戻してくれるかもしれない。しかし同時に、三百年かけて細く消えかけた灯を、再び宇宙へ向かって高らかに掲げることを意味します。それがどういう結果を招くか、私たちは慎重であらねばならない」
拍手は、今度はすぐには来なかった。会場にいる人々が、それぞれの内側で何かを確かめるように、少しの間、沈黙した。それからゆっくりと、まばらに、手を打つ音が広がっていった。
汐音は拍手をしなかった。
できなかった、というほうが正確だった。
頭の中で、セノの声が蘇っていた。《怖い、消えそうだ》。あの言葉は今も汐音の耳の奥に貼りついている。セノは星語りの信号の中から現れた。ならばセノを取り戻そうとすることは、クロエの言葉に沿えば——灯を掲げることになるのか。
わからなかった。
単純に、あの人は間違っている、と思えなかった。それが汐音をひどく苛立たせた。遙を病に追いやったのはあの機関だという疑念はある。しかし壇上のクロエは、嘘をついているように見えなかった。恐れているように見えた。本物の恐れで、三十年をかけて積み上げた確信で、あの演説をしていた。
「行こう」と透真が耳元で言った。「長居は得策じゃない」
汐音は立ち上がりながら、最後にもう一度だけクロエを見た。
ちょうどクロエも、聴衆席をゆっくりと眺めていた。その視線が——偶然か、あるいは偶然でないのか——汐音の方向で一瞬止まった。
止まった、と汐音は感じた。気のせいかもしれない。しかしあの瞳は確かに、一点で静止した。穏やかな笑顔のまま。何も変えずに。
汐音は目を逸らさなかった。
クロエも逸らさなかった。
それは二秒にも満たない出来事だったが、汐音には長く感じられた。何かが渡されたような、あるいは測られたような、不思議な感触が残った。
「汐音」
透真が袖を引いた。汐音はようやく目を切り、通路へ踏み出した。
会議棟を出ると、汚れた海風が顔を叩いた。遠くで波の音がした。空は厚い雲に覆われ、星など欠片も見えない。三百年前もそうだったのか、それとも人間が自分たちで空を閉じたのか、汐音にはわからない。
「どう思った」と透真が言った。いつもの軽さが、少し戻っていた。しかし目は笑っていない。
汐音はすぐには答えなかった。風の中に遙の声を探すように、少しの間、沈黙した。
「あの人は、怖がってる」
「クロエが?」
「うん」汐音は頷いた。「本気で」
透真は何も言わなかった。汐音も続けなかった。
ただ一つ、汐音の中で固まっていくものがあった。
クロエが正しいかもしれない。そして汐音がやろうとしていることは、その恐れを現実にするかもしれない。それでも——セノは今も怖いと言っている。消えそうだと言っている。
誰かの恐れのために、別の誰かの声を封じることが、正しいのか。
答えはまだなかった。しかし問いだけが、夜の海風の中ではっきりと形をなした。
透真が前を向いたまま、ぽつりと言った。
「クロエはね、俺の知る限り、一度も嘘をついたことがない」
汐音は彼の横顔を見た。
「それが、一番厄介なんだ」
波の音だけが返ってきた。答える言葉を、汐音はまだ持っていなかった。